小さな flaneur のテキスト

1985年4月4日、東京生まれ。

ポピュリズムの理性、危険なグレート・ハッシュタグ、あるいは啓蒙の失敗

十数万人を動員する祝祭型の市民活動は、グローバル資本主義で成功を手にした「GAFA」をはじめとするプラットフォーム企業の技術と抜群に相性が良く、市民活動にとってその実装が完了したのが平成の30年間であったと前回振り返った。 

そして巨大化する市民活動の動員の技術として、ポピュリズムの現象に注目が集まっている。あるいはもっとシンプルに右派への対抗戦略として、左派ポピュリズムの手法が選ばれはじめている。 

ポピュリズムは右派特有のものではなくなった。ポピュリズムの勢いはなかなか止められない状況にある。病理的で愚劣、正常ではない、などの軽蔑あるいは侮辱の言葉をポピュリズムに投げかけるだけでは止められないだろう。

もしかすると、ポピュリズムには可能性があるのかもしれず、この現象と真剣に向き合うことが必要なのではないか。政治学者 エルネスト・ラクラウの2004年の著作は、ポピュリズムにも理性があると論じ、啓蒙主義的な左派が活用でき、右派的な権力に対抗できる言説戦略であると論じた内容だ。 

もともと彼は、盟友のシャンタル・ムフとの1985年の共著で、新自由主義に対抗するための左派のプロジェクトとして、根源的民主主義(ラディカル・デモクラシー)を構想した。 

根源的民主主義とは何か。ラクラウとムフが論じたテキストを、スロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクが1989年の『イデオロギーの崇高な対象』で要約している。 

ラクラウとムフによるラディカルな(根源的)民主主義の構想をみてみよう。そこには、個々の闘争(平和運動エコロジーフェミニズム、人権運動など)の結合がみられるが、そのどれか一つが、「真理」、最後の「シニフィエ」、他のすべての運動の「真の意味」だというわけではない。しかし、「ラディカルな(根源的)民主主義」というタイトルそのものが示しているように、これらの闘争を結合しうるということ自体が、ある一つの闘争が「結節的な」決定的役割を果たすことを示唆している

つまり根源的民主主義とは、総力戦を実現するために、つながっていないが故につながる集団形成の理論である。イデオロギーも関係なく、マイノリティというだけでつながる運動だ。この集団形成には根拠が無い。根拠がないことで集団がつながっていくことに左派は可能性を見出してきた。

そして、ムフは2018年の著作『左派ポピュリズムのために』で、ラクラウが論じたポピュリズムを要約している。 

社会を二つの陣営に分断する政治的フロンティアを構築するとともに、「権力者」に対抗する「敗者(アンダードッグ)」を動員する言説戦略である

ポピュリズムは特定のイデオロギーではないと、ムフは指摘する。特定の内容をもつ政治的プログラムから生まれるものでも、一箇の政治体制でもないと。それは時と場所に応じて、多様なイデオロギー形態をとることがあるし、様々な制度的枠組みとも両立する政治技法(way of doing politics )であると指摘している。

ポピュリズムは政治技法なのだ。だから右派特有のものではない。それは例えば、反アベでつながっていた、あるいは反トランプだけでつながる左派の運動もポピュリズムの一種だ。この運動は本質的ではないとバカにできなくなってきている。

左派の市民活動の現状を照らし合わせながら、政治理論と精神分析を横断するラクラウの『ポピュリズムの理性』の合理性、理論的根拠を整理してみたいと思う。 

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平成とNPO ―― 共感の集団感染と、個人の愛を道徳化した30年について

「古い名を暫定的かつ戦略的に保存する必要がある」と言及したのは、仏国の哲学者 ジャック・デリダによる1972年のテキストだ。

新しい概念が浮上したとしても、「古い名」は維持したままで、同時に新しい概念として二重化することによって、脱構築の効果を発揮すると。

平成が終わって、初めての夏が過ぎた。平成の30年間で、NPOは「古い名」になったように思う。

平成30年はちょうどNPO法施行20周年だった。平成最後の一年は、NPO業界の20年の歩み、次の20年の展望、20年前にNPOが目指していた市民社会について全国で議論された。

NPOは生まれたときから、全ての時間が平成だった。すべてキャリアが平成だったNPOは、平成の終焉とともに、歳を重ねて「古い名」になった。

なので、新しい概念を浮上させるのもいいのかもしれない。けれどもぼくはこの古い名を、暫定的かつ戦略的に保存したいと考える。そのためには、古い名となったNPOに内在化する障害物を見出す必要があるのではないか。

内在化する障害物とは何か。それはラカン読解から固有名論、イデオロギー批判を扱った、スロベニアの哲学者 スラヴォイ・ジジェクによる1989年の著作に現れている。

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ポスト・ヒューマニティーズのレンズから見えた家族的な寄付

ぼくの仕事はクライアントにペーパーワークを求める官僚制に突き進んでいる。エントリーフォームの記入やワード書類を提出してもらい、そこから面談の日時調整をしてから初めて会う。その後ご一緒してからも、企画書の提出をお願いする。何かが終わればアンケートや報告書提出を依頼することになるだろう。ぼくの仕事は一事が万事この調子で、だいたい公務員と同じだと説明できるかもしれない。

2018年7月は、西日本を中心に記録的な豪雨があった。この現場に資金を提供したコミュニティ財団が岡山県にある。緊急災害支援活動には多額の寄附金や義援金が集まる。ただそれを使うには一般的には緊急災害時でも同じように、官僚的な手続きが必要だ。

岡山のコミュニティ財団も、数千万規模の他の資金提供プログラムに劣らず、官僚制のプロセスが必要なはずだとぼくは思っていた。だがそれは、官僚制の仕事からは程遠いものであった。

ある避難所にトイレが足りない声があがれば、使用目的はもちろん、資金提供の承認プロセス無く、数百万円をその避難所の運営者に提供していた。官僚的な仕事、資金を提供する市民や企業の最終承認プロセスを経ていない。これは緊急災害が特別なのではなく、岡山のコミュニティ財団は、通常の資金提供プログラムも同様に運用しているのだ。

寄付をした市民も企業もコミュニティ財団を信じている。官僚的なプロセスを必要としない。一方でぼくの仕事は必要以上にペーパーワークを設けているのではないか。ぼくは想像力によって信頼し合う人間関係を、引き受けることができずに怖れていた。

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官僚制は快楽の源泉を生むものであると指摘したのは、米国の文化人類学者 デヴィッド・グレーバーによる2015年の著作であった。彼は「われわれは99パーセントだ」というスローガンをつくり、ウォール街占拠運動の理論的指導者としても有名だ。

ぼくたちは官僚制を選択してしまい、官僚制の迷宮にはまる。グレーバーは、官僚制をゲームに例え、ゲームとは何なのか、ゲームを楽しいものにしているのは何なのかを問うた。

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社会的インパクト評価をめぐる批判から、思弁的実在論による捉え直しへ

社会的インパクト評価は科学的な知をもとめる体裁で、宗教的な物語を語っているに過ぎないのか。そしてそれを非難する者たちも不在の真理にたどりつこうとしているかは不明である。願わくは、物語が感染と模倣を繰り返し、短絡的な欲望で満ちた世界で偶然に、真理の登場のあらんことを。

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伊藤計劃によるSF小説『ハーモニー』を読んでいた。権力が管理制御する「生命至上主義」の社会を描いた作品で、人々の身体を「公共的身体」とみなす世界観だ。

身体を常にモニタリングするデバイス「WatchMe」、病気を予防する投薬システム「メディケア」、理想体型のために食事や生活様式を提案する仕事「ライフデザイナー」を、すべての人々が当然のように使っている。健康のスコアリング情報をリアルタイムで確認できるのだ。

2018年のぼくらの世界でも、医療費削減を掲げない自治体は無い。政策の実行判断、事業者選定において医療費と住民人口の掛け算が、提示される健康改善のエビデンスになる。集めた大量の健康データは、計算能力の高い機械で処理されることでアルゴリズム化し、コストパフォーマンスの高い、公共的身体の管理を目指せそうだ。

小説『ハーモニー』の世界は、2019年に核戦争・感染症で世界が包まれた「大災禍」が発生したことがきっかけで、人々の身体に「WatchMe」がインストールされた。ぼくらの現実のインフラは未熟だけれども、ぼくがはじめて本書を読んだ10年前(2009年)と比べて、公共的身体の価値観は違和感なく現実に向かっている。

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アルゴリズム化への欲望は医療や健康コストだけでなく、社会貢献や社会課題に取り組む分野で顕著に現れている。

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震災の流れの中断と震災の継起の間の生成変化

「偶然性 contingency 」は、リスク管理、成功報酬型の世界で登場する言葉だ。将来起こりうる事、つまり不慮の事故、不測の事態という意味を持っている。

偶然性や偶発性に自覚的になり、他者へ「共感」した後、結果的に連帯の感覚が生み出されると考えたのは、米国の哲学者 リチャード・ローティによる1989年の著作であった。

彼の考える連帯を生み出す共感は、共通の信念や欲望の確認ではない。キャンペーンやデモのプロジェクトが、社会から注目され、SNSで拡散され、メディアが取り上げることで、「あなたは、私が信じ欲することと同じことを信じ欲しますか」のような問いが生み出すような共感ではない。

彼の考える連帯を生み出す共感は、単純に「苦しいですか?」という呼びかけだった。個人の目の前で偶然に起きた、とても具体的な事に感情移入した後、結果的に生まれる呼びかけが連帯だと基礎づけた。

それを引き受けて、日本の批評家 東浩紀は2017年に発表した哲学書で、連帯の基礎となる共感を「憐れみ」という言葉で示した。この憐れみについては、フランスの哲学者ジャン・ジャック・ルソーの1755年の著作にも登場する。苦しんでいる人々を見て、よく考えずに助けに向かわせてしまうものであり、各個人の自己愛や利害のコスパ計算などを和らげ、人類種全体の相互依存に協力する。この働きが憐れみだ。

憐れみで、個人が偶発的にだれかと連帯しようとする。それはうまくいかずに失敗する。あちこちでうまくいかず、不平等も生んでしまうかもしれない。東はそれでも、たえず連帯しそこなうことで、結果的にあとから振り返ると、連帯らしきものがあった気がしてくる錯覚が、次の連帯の(失敗の)試みを後押しすると考えた。

民族や宗教や文化のような大きな帰属集団が生み出す大きな共感ではなく、偶然の出会いによる憐れみ、「苦しいですか?」と呼びかけることで連帯しようとする。「憐れみ pity 」には、「共感 sympathy 」の感情が含まれる。

何度も繰り返されてきているように、この連帯はよく失敗している。それでも、あたかも家族写真アルバムのように振り返ると、結果的にそこに連帯が、存在するかのうように見えてしまう。東は錯覚の集積として連帯を構想した。

とはいえ単純に「苦しいですか?」と呼びかけることは可能だろうか。

たまたま偶然に、目の前に苦しんでいる人がいる。複雑化し、個別化がすすむ世界で、個人が何も強制力を無しに、その呼びかけを何度も生み出すことができるだろうか。

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2017年11月下旬、3列シートの四駆車の助手席に座って、イワサワ(・コウジ似の道案内人)に岩手県陸前高田市を案内してもらっていた。もの寂しい冬の沿岸部に、工事用の重機が遠くに見える。一車線やら二車線に何度も変わる道路で、何台もの大型トラックとすれ違う。カーナビは数ヶ月前に道路情報をアップデートしたというのに、若干の過去の道路と現在の道路の齟齬により、迷子になっている。「道路の記憶」が日々の工事状況で閉鎖・移動・解釈変更がなされ、固定化されていない。8割以上の進捗とニュースで見た復旧と整備は、休日も止まることなく続けられていた。

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戦後運動史、NPO史の見取り図

思い出されるとどうしてもやるせなくなる2017年の出来事は、10月にあった民進党の分裂。希望の党とのやりとり。そしてスティーブン・バノン氏とのやりとり。情報が届くたびに今世をあきらめる気持ちが止まらないのが正直な気分だ。ここまであけすけに裏表なくやられてしまうと、政治的な公のこととは何なのか考える。それに応援もしくは反対する人も含めて、その考えは見たくも知りたくもなかったよ、尊敬していたかったのにと勝手にがっかりしてしまう。私的な秘密なことがあるから、公な建前が成り立つのに、ごった煮で提供される現実を受け止めきれないでいる。

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朝のオフィスでテレビ電話の打合せをする。毎回とても気持ちよく協力してくれる方で、本人はできる範囲でといつも表現をしているが、限りなく時間を割いてできるだけ目一杯に相談にのってくれて、毎回一緒に形にしてくれる。イヤホンから声を拾いながら、とても大切な仕事のパートナーだと少なくともぼくは思っている。課題はまだあるが、今日も無事に45分の打合せが終わった。

テレビ電話の打合せの最後には、必ず手を振って終えることにしている。ぼくは対面の打合せでこの仕草を決してしない。移動時間の節約だけでなく、このコミュニケーションが自然と生まれるからテレビ電話の打合せが好きだ。お子さんと一緒に向こうも手を振ってくれて終わる。この方には今年はじめてのお子さんができた。ぼくと同じ日に生まれたと聞いたとき、まだ出会ったこともないのに嬉しさが込みあげてくることもあるのだと思った。1時間して、また別の方とテレビ電話の打合せが始まる予定だ。

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2009年、ぼくはいまの仕事を選ぶことができた。NPO業界で新卒として働き始めた。1968年の全共闘運動で学生だった代表が立ち上げてから20年続くNPO支援組織だ。この頃から日本でソーシャルアントレプレナー社会起業家)に注目が集まり始めていた。前年の2008年には、iPhoneFacebookTwitter が本格的に日本に上陸した。

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