小さな flaneur のテキスト

1985年4月4日、東京生まれ。

震災の流れの中断と震災の継起の間の生成変化

「偶然性 contingency 」は、リスク管理、成功報酬型の世界で登場する言葉だ。将来起こりうる事、つまり不慮の事故、不測の事態という意味を持っている。

偶然性や偶発性に自覚的になり、他者へ「共感」した後、結果的に連帯の感覚が生み出されると考えたのは、米国の哲学者 リチャード・ローティによる1989年の著作であった。

彼の考える連帯を生み出す共感は、共通の信念や欲望の確認ではない。キャンペーンやデモのプロジェクトが、社会から注目され、SNSで拡散され、メディアが取り上げることで、「あなたは、私が信じ欲することと同じことを信じ欲しますか」のような問いが生み出すような共感ではない。

彼の考える連帯を生み出す共感は、単純に「苦しいですか?」という呼びかけだった。個人の目の前で偶然に起きた、とても具体的な事に感情移入した後、結果的に生まれる呼びかけが連帯だと基礎づけた。

それを引き受けて、日本の批評家 東浩紀は2017年に発表した哲学書で、連帯の基礎となる共感を「憐れみ」という言葉で示した。この憐れみについては、フランスの哲学者ジャン・ジャック・ルソーの1755年の著作にも登場する。苦しんでいる人々を見て、よく考えずに助けに向かわせてしまうものであり、各個人の自己愛や利害のコスパ計算などを和らげ、人類種全体の相互依存に協力する。この働きが憐れみだ。

憐れみで、個人が偶発的にだれかと連帯しようとする。それはうまくいかずに失敗する。あちこちでうまくいかず、不平等も生んでしまうかもしれない。東はそれでも、たえず連帯しそこなうことで、結果的にあとから振り返ると、連帯らしきものがあった気がしてくる錯覚が、次の連帯の(失敗の)試みを後押しすると考えた。

民族や宗教や文化のような大きな帰属集団が生み出す大きな共感ではなく、偶然の出会いによる憐れみ、「苦しいですか?」と呼びかけることで連帯しようとする。「憐れみ pity 」には、「共感 sympathy 」の感情が含まれる。

何度も繰り返されてきているように、この連帯はよく失敗している。それでも、あたかも家族写真アルバムのように振り返ると、結果的にそこに連帯が、存在するかのうように見えてしまう。東は錯覚の集積として連帯を構想した。

とはいえ単純に「苦しいですか?」と呼びかけることは可能だろうか。

たまたま偶然に、目の前に苦しんでいる人がいる。複雑化し、個別化がすすむ世界で、個人が何も強制力を無しに、その呼びかけを何度も生み出すことができるだろうか。

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2017年11月下旬、3列シートの四駆車の助手席に座って、イワサワ(・コウジ似の道案内人)に岩手県陸前高田市を案内してもらっていた。もの寂しい冬の沿岸部に、工事用の重機が遠くに見える。一車線やら二車線に何度も変わる道路で、何台もの大型トラックとすれ違う。カーナビは数ヶ月前に道路情報をアップデートしたというのに、若干の過去の道路と現在の道路の齟齬により、迷子になっている。「道路の記憶」が日々の工事状況で閉鎖・移動・解釈変更がなされ、固定化されていない。8割以上の進捗とニュースで見た復旧と整備は、休日も止まることなく続けられていた。

ぼくは2011年の夏に南三陸石巻に2度訪れたきり東北に行かなくなっていた。2015年からは、東日本大震災とりわけ原発事故をめぐることについて個人として全く言及していない。震災はこう語らなければいけない。福島はこう語ってはいけない。それが大切なのはわかるけど、固定化された語り方とまなざしの圧力から逃げてしまっていた。むろん日々の仕事で入ってくる情報、SNSで流れてくる現地で活動をする知人の様子が、幽霊のようにいつもぼくを見ていて逃れることなんてできなかった。

東北にふれることは、冠婚葬祭に赴く気持ちに近い。決まったものを見て、決まったことを言って、決まったことを聞かなければならない。東北の太平洋側は巨大な慰霊の空間で、ぼくは慰霊の作法を求められているように思っていた。能動的な意思、大きな強制力がなければふれようとしない、ぼくは堕落していたのだ。

堕落であっても、本当はもう一度かかわりたい。動物のように待ち伏せていたぼくは仕事で「桜ライン311」と出会った。津波の最大到達点に桜を植樹し、桜並木で百年以上の未来に記憶を残す活動だ。かかわり方として寄付はもちろん、春と冬の桜の植樹会への参加がある。

出会った2017年の夏に、植樹会への参加を決めた。桜の植樹は、東北に期待されている作法とはまったく別のありかた、不思議なものに見えた。桜の植樹だけで陸前高田に入っていいのか。新しく語ってもよい言葉を獲得できるのか。東北ともう一度関係をやり直せるかもしれない、特別な興奮を見つけた。

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桜の植樹は翌日ということもあり、出発日はイワサワの案内で、陸前高田をめぐった。イワサワは東日本大震災後の数年間は東北で人材派遣のような仕事をしていて、陸前高田で精力的に今も継続しているプロジェクトに詳しかった。ここ最近の仕事は、「農家民泊」を全国に普及するプロジェクトが中心らしい。イワサワはぼくらに、何を見に行きたいか聞いた。ぼくらはイワサワが勧めるところなら、どこでもと答えた。

道の駅のようなお土産店が併設されている、沿岸部のオフィスに到着し、民泊修学旅行を実施する「マルゴト陸前高田」にお伺いした。中高生が修学旅行先として陸前高田に行き、4、5人のグループにわかれて、各家庭に宿泊するプログラムを、オフィスにいらした職員の方に教わった。

修学旅行生は地元の家庭で、寝食をともにして、泊まった家が生業にしている畑作業や漁業などの仕事を手伝う。各家庭が体験した津波の経験と声を、直接聞く学習の時間も用意されている。テレビやインターネット、すでに事前学習や資料館で大まかなイメージをつかんでいる修学旅行生にとって、民泊は震災と震災以外の陸前高田の背景情報に関心を抱くことができるプログラムになっていた。

中高生にとって修学旅行は、行き先を選択できないなかば強制的な経験になる。「学校行事だししかたないから」、「友達と旅行できるのがとっても貴重な時間」という気持ちを逆手にとって、結果的に、地元の人の生活や声、本来の陸前高田の魅力に導くプログラムに見えた。

それと、民泊修学旅行の迎えた最終日に、中高生が受入れ家族と一緒に撮影する集合写真がとても尊いと思えた。彼ら彼女らは卒業式や同窓会、5年後、10年後に、陸前高田に修学旅行をした思い出を振り返るだろうし、また訪れたくなるかもしれないだろうと想像した。

修学旅行生が、事後的に自分と陸前高田との運命を見出す視線を獲得できる可能性を秘めた、とても素晴らしいプログラムだと思った。ところが驚いたのは、前年の修学旅行生たちが、翌年にはプライベートに友達同士で、陸前高田の受入れ家族のところに戻ってくることがあるらしい。震災について、自分で語ることができる視線、運命を見出した中高生と、逃げていたぼく自身を比べてしまった。

さらに聞くと、マルゴト陸前高田の民泊修学旅行は、一度に300名規模の学校の修学旅行も受入れが可能らしい。一度に100世帯以上で民泊できる規模だ。陸前高田の人口は2万人。民泊受入れ費用があるといっても、プライベート空間に縁もゆかりもない他者を招き入れる世帯数にしては、少し信じがたい数字だとぼくは感じた。

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民泊修学旅行を紹介するマルゴト陸前高田のオフィス

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人の行為には意思があって、責任が生ずる。だが、意思と一体になった責任は、責任の堕落した姿ではないかと考えたのは、日本の哲学者 國分功一郎による2017年の著作であった。

「責任 responsibility 」は、「応答 response 」と切り離せないのではないか。自分の目の前で起こったことや、自分が知ったことへの応答として、責任はあると國分は示した。

中国の故事に孟子の「以羊易牛 : 羊をもって牛にかえる」が、この責任のありかたを示す。王様はたまたま偶然、牛を連れているものを見た。たずねるとこの牛はお祭りの生贄で殺されてしまうらしい。牛に罪はない、かわいそうだから助けてやれと、王様は命令をした。お祭りの生贄の代わりには、羊がよいだろうと王様は伝えた。

この故事に孟子は、羊がかわいそうではないかと反論もわかるが、王様はたまたま目の前にいた牛を、助ける理由もないのに助けた。まずはこの行為が重要で、ここにまで及ぶことが義の心であるとした。

放っておけば世の中は善になるわけはなく、目の前にした他者に対して湧き起こった忍びざる心を、行為にすることが大切だと孟子は考えた。王様が応答したように、まずは牛を助けることからが重要で、そこから想像力を通じて、不在の他者にまで拡充させること、善に向かって何らかの作為的な努力をつづけることが性善(説)であるとした。

何かに強制されず、「応答 response 」しなければならないものを感じた王様の行動には、「責任 responsibility 」の原初形態が見てとれる。國分はこれに対して意志と一体になった責任は、応答すべき立場にあるにもかかわらず応答しない人に、意志という概念装置を使って強制的に応答させることだと考えた。ぼくたちの社会が思い浮かべるこの責任の姿は、責任の原初形態からはほど遠い堕落した姿であると。

理想論ではなく、ぼくらは偶然の出会いの中で、原初形態の責任を発揮している。例えば終戦直後の日本で、たまたま戦争孤児に出会い、かわいそうに思ったから養子にしたというエピソードは、さまざまな物語に描かれている。

2018年のいまでも全国上映が続いている片渕須直監督、こうの史代原作のアニメ映画「この世界の片隅に」のラストシーンを思い出す。すずさんは廃墟になった広島で、知らない子どもと出会い、その子どもを引き取ることにした。戦争孤児を受け入れることは誰からも強制させられないし、国が強いたわけでもない。すずさんはどうして戦争孤児を引き取ったのか。彼女は何に応答したのか。

お義姉さんの子どもを自分の右手と一緒に、不発弾で失った経験が大きいのかもしれない。たまたま偶然に、困っている、食べ物を欲っする子どもを目の前にし、助けずにはいられなくなった。お義姉さんの子どもを助けられなかったことが、すずさんの目の前の子どもを助けたいという行動につながったのではないか。誰からも強制されていないが、 お義姉さんの子どもに抱いていた責任に応答したのではないか。自分が本当は助けたかった特定の誰かではなく、たまたま偶然に、目の前で苦しんでいた子どもに、「苦しいですか?」と呼びかける。終戦直後の見えない生活の中で育てるコスパも考慮しない、憐みの行動だ。

70年前だから通用するわけではなく、2017年でもぼくらは応答している。

陸前高田の民泊修学旅行の受入れ家庭の数は、民泊に詳しいイワサワから見ても、町の規模の割りに多い。拒否をせず、引き受ける家庭が多いのか理由を聞くと、東日本大震災当時、多くのボランティアに助けられた経験が、民泊受入れを後押ししていた。今度は「われわれ」が民泊で受入れる番だと言う。強制力はもちろんない。民泊受入れ費用のインセンティブもそれほど大きくない。民泊を受入れることは、陸前高田の応答であり、連帯なのだ。

たまたま目の前に苦しんでいる人間がいる。ぼくたちはどうしようもなくその人に声をかける。同情する。それこそが連帯の基礎であり、われわれの基礎であり、社会の基礎だとリチャード・ローティは言う。

ルソーは、憐れみとは、われわれが苦しんでいる人々を見て、よくも考えもしないでわれわれを助けに向かわせるものであり、各個人において自己愛の活動を和らげ、種全体の相互保存に協力している働きだと言う。

もし憐れみがなければ、人類はとうの昔に滅びていただろうと「人間不平等起源論」でルソーは記す。憐れみこそが社会を作り、そして社会は不平等を作ると。市場で注文したはずのものが違う場所に届いてしまったり、注文していないはずのものが届いてしまったり、交換が失敗し結果的に贈与が生まるように。

東浩紀は、憐れみで、個人が偶発的にだれかと連帯しようとする。それはうまくいかずに失敗する。あちこちでうまくいかず、不平等も生んでしまうかもしれないと言う。それでも、たえず連帯しそこなうことで、結果的にあとから振り返ると、連帯らしきものがあった気がしてくる錯覚が、次の連帯の(失敗の)試みを後押しすると。

意思と一体になっていない責任の行動、憐れみが連帯を生み出す。自覚的に、意思なしの責任は生み出せないだろうか。ぼくらは法律や市場のルール、意思という強制的な概念装置使って責任を持って誰もが行動することができるし、行動に根拠付けをされて責任を問われる。ただそれが(交換が)失敗しつづけているのも現実で、憐れみ(と贈与)に満ちた空間でもあると言える。偶然性に自覚的な仕掛けをすることで、何かに応答する責任が生まれるような連帯を拡張することはできるだろうか。

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植樹会の朝 - 桜ライン311のFacebookページより

天候に恵まれ、氷点下になるかならないかのなかで桜の植樹会は行われた。この日は、地元、北海道から九州まで全国から120名が参加し、新しく41本を植樹したようだ。

スコップや培養土、いくつものポリタンクの水などが配られ、遠くに海が見える高台に登り、ぼくらも3人1組で、2メートルほどの桜の苗木を1本植樹した。この桜は、ソメイヨシノのようにすぐに花は咲かないらしい。苗木が満開になるのは、10年以上先のようだ。

震災にはかかわれないとあきらめを感じていた時間は、ぼくの経験的な失敗だった。それでも7年間の失敗から事後的に、震災に対する運命を見出すかのような経験となったと思う。

「憐れみ」は、自分の中に生じた「忍びざるもの」の端緒をたぐりよせて「忍ぶもの」になるように努力する必要があり、努力を切断しないようにすることが重要なのだと言う。植物の発育のように、草木が生い茂るように拡張できるだろうか。桜並木が満開になるその時まで、桜の木の下で連帯するかのような想像力につながるといいと思う。

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東京に戻ると、ヘルメットをかぶった作業員の人たちが街路樹の植え替えをしている。ぼくは32歳になるまでやったことのなかった、植樹の作業手順を思い出していた。1月の東京と、11月の岩手県の肌寒さはちょうど同じかもしれない。道路の反対側から見ても10メートル以上はありそうな街路樹は、ぼくが植えた2メートルほどの桜の苗木とは比べものにならなく大変に違いない。

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