小さな flaneur のテキスト

1985年4月4日、東京生まれ。

書評:東浩紀『訂正可能性の哲学』

東浩紀『訂正可能性の哲学』2023年9月1日刊行、ゲンロン、364ページ

https://www.amazon.co.jp/dp/4907188501

NPOの仕事をしていると、未来、イノベーション、革新のキーワードが自然と目に入ってくる。ぼくたちは世界を変えられるのか、どうしたら「ルール・チェンジャー」や「ゲーム・メイカー」になれるかを日常的に考える。

けれども毎日の仕事は地道なことが多い。当事者と向き合うことにお祭り的な派手さは必ずしも求められない。寄付やボランティアを通じて一緒に活動する人たちとのコミュニケーションでも派手さより誠実さが求められることが多い。

仕事を祝祭型にしなくとも、SNSやメディアの注目を集めるブランディング戦略を立てて、自分の人生と現代の大きな物語をつなげることで何かが変わるかもしれない。けれどもこれが世界を変える方法なのだろうか。

東浩紀の『訂正可能性の哲学』は、これらの問いとNPOで仕事をすることの意味を大いに考えさせてくれる。AI・アルゴリズム時代の民主主義と公共性のあり方、当事者の声とその支援者と一緒につくるコミュニティづくり、そしてNPOの運動論において大変重要な一冊である。

個人の問題意識から世界を動かすムーブメントは、20世紀の学生運動、社会運動、政治運動、労働運動、住民運動、ネットワーク論の原点であり、21世紀のNPOや市民活動のルール・チェンジャーやゲーム・メイカーとも共通する点だ。

20世紀の市民活動の土台には、一国を超えた革命の構想があった。例えば1960年安保闘争、68年の学生運動、そしてベ平連ベトナム反戦統一行動は、カントの平和論とマルクス革命論が結合した「世界同時市民革命」をめざす社会現象であった。

他方で21世紀の世界は大きな物語を失いつつも、祝祭型の運動を繰り返すようになる。2000年には、アントニオ・ネグリマイケル・ハートの『<帝国>』が刊行され、冷戦後の左翼が最も期待を寄せている、ばらばらな個人が自由意志でつくる新しい連帯(マルチチュード)の概要を示した。インターネット技術の普及も相まって、現在まで続く祝祭型の革命運動が世界各地で立ち上がり続けている。

2010年の「アラブの春」は、チュニジアやエジプト、リビア政権交代まで成果を出し、民主化デモにおけるSNSのキャンペーンが注目された。11年は米国の経済界、政界に対する一連の抗議運動「ウォール街占拠」が起こる。 東日本大震災後の12年は、「さよなら原発10万人集会」が日本で起こった。15年には「SEALDs」が結成された。 19年の逃亡犯条例改正案に反対する香港デモ、それ以前も香港では14年に反政府デモ「雨傘革命」が行われた。 緊急災害時以外で世界規模の寄付キャンペーンの成功例も生まれた。 14年の「ALSアイス・バケツ・チャレンジ」は、世界で1,700万人が参加し、米国だけでも約142億円の寄付が集まった。 そして17年は、SNS上でセクハラなどの性的被害を告白する「#MeToo運動」が、欧米とアジア圏で急速に広まった。

このような祝祭型の運動は革命的でありながらも一方で、世界を政治的な分断に進めていると指摘される。新しい制度の創設の有無や、社会の持続性の観点で疑念をもたれている側面もある。

SNSやインターネットを武器に加速させる祝祭型のNPO、市民活動、ハッシュタグ・アクティビズムは新しい価値観の世界を作りきれるのか。もし作れないのなら何が足りないピースなのか。

東は、持続性のある社会には「変化=訂正」が必要である、と強調する。ルール・チェンジャーやゲーム・メイカーになる兆しは、グレート・リセットを望む祝祭型の革命だけでないのだと。

この変化の鍵となるのが、当事者や支援者による感情的で私的で文学的な言葉である、と示すのが本書のテーマの一つである。民主主義における公共性、持続性、参画性、文学性を再考し、世界が変わるための思想的基盤を本書はもたらしてくれる。

『訂正可能性の哲学』がもたらしてくれる意義は、公共性と共同体を根本的なレベルまで考え、市民運動によって新しい制度やルールが生まれる理論を再考できることにある。

本書の前半では、国家や都市のような共同体の最小単位である「家族」を出発点にして、知識人や権力者が家族を否定し続けてきた歴史を明らかにしていく。明らかになるのは、家族以外の共同体をめざしても、別の家族の形が新たに生まれ、家族の外には結局家族しかない、実は家族のモデルが違うだけなのだとする東の論旨は示唆的である。

この前提から、家族的なモデルの共同体における新しい制度の創設やルールの変更には、共同体の構成員の存在が必要であり、かつ現状に対する懐疑論者、あるいはクレーマーの存在が重要であると東は指摘する。

東は、訂正可能性による社会の変化はどこにでもこれまでも起こって来たことであると前置きをしたうえで、共同体の中心にいるプレイヤーだけではルールの変更は起きず、それに賛同するメンバーがいなければならないと論じる。さらにそのルールの変更には、現状を疑い、マジョリティにとってはちゃぶ台返しをするような、新しい価値観を提示するクレーマーの存在が必要だというのだ。

これは一見するとクレーマー論であるが、当事者あるいはそれを支援する人々による感情的で私的な言葉が共同体には必要なのだと東は示す。つまり本書の議論の中心は根源的なマイノリティ論なのだ。

別の言い方をするならば、ルール・チェンジャーやゲーム・メイカーに欠かせないことは、ウォーターフォール的な正義を掲げた動員の市民運動ではなく、アジャイル的に現場の声を蓄積する思考と行動であり、それが共同体をつくるのだ。

この共同体論にハンナ・アーレントが参照され、公共性を複数人で記録する「制作物(Work)」と持続性の論点が導入される。これはNPOの活動で重要な「参加(参画性)」の特徴を再考するうえで、重要なアーレント読解のひとつとなるだろう。

本書の後半ではさらに民主主義をテーマに論を進めて、『社会契約論』で有名なジャン=ジャック・ルソーの一般意思の概念について多角的に考察する。一般意志は、どのような社会的背景とルソーの人物像によって生まれたのか、またどのような影響を後世に残し、どのように変奏されたのか、そして現代の民主主義においても一般意思の謎とはなんなのか、といった点についてだ。

一般意思の概念を提示したルソーの人物像と著作については、哲学者としての『社会契約論』『学問芸術論』『人間不平等起源論』が多くの論者によって賛否両論さまざまに論じられてきた。東はここに『新エロイーズ』や『告白』 『ルソー、ジャン=ジャックを裁く―対話』の著者である文学者としてのルソーの立場にも注目する。哲学者として文学者としてのルソーの二重性をもって見た場合、これまで賛否両論さまざまに論じられてきた一般意思に、違った意味を再考できると示す。

また一般意思が後世への影響と受容の仕方で変奏してきた文脈では、無意識の発見と統計の整備によって、「人工知能民主主義」という形で一般意思が現代社会に実装できる可能性が語られはじめていることを東は明らかにする。

しかし、このような一般意思の実装は、哲学者としてのルソーの面だけを素朴に理解しただけであると東は危機感を抱く。人工知能が生み出す新しいアルゴリズムで、意識の高い市民による熟議で、独裁者の直感で、あるいは前衛党の指導のようなものによって、「正しい」一般意思を把握でき、それに従うことで正義の政治が実現できると考えることは大変危険な行為であると。

すなわち、哲学者と文学者としてのルソーの二重性をふまえた一般意思がなけれなばらないと東は主張する。この二重性から、超越的で絶対的な存在である一般意思が、同時に訂正可能性に開かれていなければならないとはどういうことなのかを本書は導き出そうとする。

ルソーは一般意思と同様に、自然と愛も超越的で絶対的な存在であると考えていた。それと同時に彼は恋愛小説というフィクション(嘘)を創作し、またあろうことか偽の書簡集を出版し、真実と噓の境界を曖昧にする感覚を読者に提供してきた。

ルソーは、超越的な自然と愛が訂正される文学作品を発表し、その自然が人工的かつ遡行的に発見されることが共同体や家族に変化を生み、その柔軟性によって社会の持続につながると考えたのだ。

本書の前半で展開された、個人の感情的で私的で文学的な言葉が、公共性や共同体をつくる議論と見事に接続され、一般意志の謎がミステリー小説のように解き明かされていく。特にルソーが『新エロイーズ』に登場するライバル役のヴォルマールに、彼自身を投影していたのではないだろうかと考察する東の読みはアクロバティックでありつつ、ルソーの二重性をもつ人物像を読み解くうえで圧巻である。

これらの議論を踏まえて本書の最後に考察される問題は、一般意思が構想しようとした民主主義の本質とは何だったのか。そして改めて、絶対的なものが同時に訂正可能であるために必要な具体的なことが考察されなければならない。

これについて東はルソーが『新エロイーズ』で表現した「小さな社会」の概念を検討する。小さな社会が無数に存在することにより、ルソーの一般意思、民主主義の思想は表現されているのだと。

無数の小さな社会を検討するうえで、東はふたりの思想家を登場させる。ひとりめは、ミハイル・バフチンであり、彼の「ポリフォニー(多声性)」の概念を参照する。ポリフォニーは、複数の声が並び立ち、ひとつの声に収斂しない、終わることのない対話である。ポリフォニーが、小さな社会の民主主義を理解の補助線になると東は展開する。

バフチンが重視した、ドストエフスキーの中編小説『地下室の手記』の主人公が一人でするノリツッコミや呪詛の語りと、本書前半で登場するクリプキクワス算の懐疑論者、本書後半の『新エロイーズ』のヴォルマールの嫉妬などは、まさに私的で、価値転倒的な、理性的でも倫理的でもない雑多な言葉たちとの対話である。しかし東はこれが小さな社会を考えるための鍵であると注目する。

このような終わりがみえない対話が、一般意思の絶対性、つまりヴィトゲンシュタインで言えばゲームの絶対性が覆る例なのだ。無数の小さな社会で起きるこのような人間のコミュニケーションを重視することが、一般意思の絶対的な真実を絶えず訂正し、一般意思の暴走と腐敗の抑制を果たすと東は強調する。

小さな社会を検討するためのふたりめの思想家は、アレクシ・ド・トクヴィルである。9か月アメリカに滞在したフランス人のトクヴィルは、アメリカの民主主義を支える重要な要素として「結社の自由」を挙げていることを東は参照する。

アメリカの結社の自由は、ユルゲン・ハーバーマスが示したような「市民的公共性」「合理的なコミュニケーション」を頼りにせず、とにかくいろいろなひとがいろいろなことを好き勝手にやっていることが重要だとトクヴィルは考えていたのではないかと指摘する。ここから東は、このような認識でアメリカを見ていたトクヴィルの言葉の中から「喧騒」のキーワードを見い出す。

個人の感情的で私的で文学的な言葉は、孤独でときには脱公共的であろう。そのようなリバタリアニズムの精神こそが、多数者による暴政を抑え込むと、トクヴィルは指摘していたのではないかと東は考察する。「結社」「喧騒」、ここに「平等」「幸福」が加わって、社会をつくるのだとするトクヴィルの民主主義論は、今風に言うとさまざまなNPOの活動であり、まさにマイノリティの運動論である。

理性的で公的な言葉ではなく、感情的で私的な言葉こそが、一般意思の暴走を、すなわち「自然」や「公共」や「真実」や「正義」の絶対性を切り崩す。そしてこれらの絶対性はむしろこの脱構築によってこそ可能になり持続すると東は結論づける。民主主義の本質は喧騒にあって、真実に辿りつかない終わることのない対話と、常に新しい応答による訂正可能性が一般意思を取り巻くことで、統治は健全なものになるのだと。

最後に、本書の構成について説明する。最初の第1章で、現代世界の「家族」の概念が抱える問題が「コロナ禍のステイホーム」「おひとりさま」「革命」「私的所有」の視点で整理されていく。そのうえでプラトンカール・ポパーエマニュエル・トッドの議論を参照しながら、家族の概念をめぐる開放性と閉鎖性の対立に疑問を投げかける。

これを受けて、開放性と閉鎖性、私的領域と公的領域などの二分法で語られがちな「家族」を、より柔軟な関係概念として検討するために、第2章は、ウィトゲンシュタイン言語ゲームの「家族的類似性 ( family resemblance )」に注目をし、ソール・クリプキクワス算の共同体論を参照しながら、動的な家族のダイナミズムについて考察する。

第3章では、東が2017年に出版した『観光客の哲学』の問題設定と、第2章までの議論が整理され、家族という言葉の政治的な意味について議論が展開される。東が導入したい新しい「家族」の概念は、特定の固有名の再定義を不断に繰り返すことで持続する、一種の解釈共同体だと定義する。家族の概念をアップデートする必要があり、新しい現実に対応した家族像を提示することが中心テーマになっている。

第4章で、いよいよ現代世界の社会思想面の検討が始まる。特にリベラリズムと家族についてだ。その基礎づけのために、リチャード・ローティの『偶然性・アイロニー・連帯』と、ハンナ・アーレントの『人間の条件』における公共性論について、東は豊かな読み方を提案する。さらにアーレントの『革命について』を参照し、フランス革命のような「グレート・リセット」の連帯ではなく、持続性のある「訂正可能性」の連帯をリベラルと正義の立場から構想する。

第5章以降は第2部である。第2部では、東はルソーの一般意思を再考する。第1部で議論した解釈の共同体としての公共論を、民主主義において適用することを深めるためだ。

第5章では、「大きな物語」が復活した2010年代の時代精神で生まれた、脱中心でアルゴリズム型の「人工知能民主主義」の誕生を示す。テクノロジー史と人文学の知見をつなげる東らしい試みであり、特にレイ・カーツワイル、ユヴァル・ノア・ハラリ、落合陽一、成田悠輔、鈴木健をはじめとする現代で再評価あるいは頭角を現わしている論客が登場するのは本書を楽しく読めるところだ。

第6章のテーマは、民主主義に大きな影響を与えながらも大きな謎として残っている、ジャン=ジャック・ルソーの一般意思についてである。この章の前半では、ルソーが『社会契約論』で示した一般意思が、全体意思とは異なることを明確に示さないまま起こった混乱、曖昧なまま歩んできた民主主義の歴史を素描している。後半では、『新エロイーズ』や『告白』 『ルソー、ジャン=ジャックを裁く―対話』の著者としての文学的なルソーの側面と人物像を取り上げる。民主主義や公共性を考えた側面とは別のルソーの二重性について注目し、社会が嫌だったにもかかわらず社会をつくってしまったルソーの一般意思の問題と、本書の主題である「訂正可能性」との深いかかわりを考察する。

第6章で考察されたルソーの一般意思は、実は集合的無意識と統計的法則制を基礎にした人工的な計算機による新しい自然(デジタル・ネイチャー)をはじめとする21世紀の思想と技術に照らし合わせるとまっすぐに合理的に読解できる東は指摘する。けれどもそこには欠陥があって無視されてしまっている問題があることを検証するのが第7章だ。プライバシーの問題以外にも、ビッグデータの利用が抱える倫理的な問題が本章の中心テーマである。ビッグデータアルゴリズムは、個人を群れ(あなたに似た人々)の一部として取り込むことでさまざまな予測ができるが、「私」の固有性を扱えないことを指摘する。ルソーの思想の一つの継承としての理想の民主主義を追及することが、かえって人間の解体や排除につながる危険な逆説について警鐘を鳴らす。

第8章は、ルソーの一般意思が超越的で絶対的な力の源泉として君臨しつつ、しかし同時につねに訂正のダイナミズムに開かれている両義性を捉えるために、とくに後者についてルソーの恋愛小説『新エロイーズ』からその思想を探っていく。ルソーは『社会契約論』における政治哲学的な思想を、自身の文学的な側面によって実践的に示していたのだと東は考察する。パラドキシカルに考えるルソーの自然と人工の曖昧さ、フィクション(嘘)がつくる真実とは何かを検討し、「まるで●●●であったかのように」の訂正可能性がつくる民主主義の構想、柔軟に変わり続ける持続可能な共同体の萌芽を見ていく。

最後の第9章は、民主主義についての結論の章である。ミハイル・バフチンの『ドストエフスキー詩学の諸問題』のポリフォニー、終わることのない対話を参照し、アレクシ・ド・トクヴィルの『アメリカの民主主義』から、もう一度「一般意思」の暴走と腐敗の抑制について論じられる。この議論のなかで、健全な統治としての民主主義の本質が現れてくる。

社会におけるルール・チェンジャーやゲーム・メイカーは、言語ゲーム的な参加型の共同体論をベースに、クワス算的な思考と行動を受け入れて、社会の持続性を高めていくことが本書から見えてくる。

この思考と行動は、可能世界論的であると言い換えることができるかもしれない。共同体でこれまで起きたことを記憶しつつも、想定している未来に固執しすぎずに、もしかしたら自己否定になるかもしれないが、新しい世界を共同体の構成員と作り続けていく思考と行動だ。

これは過去の忘却、記憶の改変をするような歴史修正主義の立場とは異なる。グレート・リセットを望む立場とも異なる。

可能世界論的な思考と行動は、物語の伏線を丁寧に回収していくような立場なのだ。

自分が立っている場所と問題意識は、他者の物語を引き継いでいる。その他者が語り終えなかった物語の伏線回収をして、新たな物語のゴールを迎えるのが『訂正可能性の哲学』における民主主義であり、ルール・チェンジャーやゲーム・メイカーの在り方なのだ。

例えば「社会課題を解決したら自分たちは消える」と掲げるNPOの一見素朴なフレーズも、可能世界論ととらえるならば、それを発する人間の覚悟や存在が断然違って見えてくる。

けれども果たして、可能世界論のように新しい世界が作られ続けることにぼくらは耐えられるのだろうかという疑問も残る。

共同体が絶えず訂正されることは、もともと思っていたことが変わり、前々から信じていたことさえも遡行的に変わることなのだ。例えばキャンセルカルチャーに耐えられないバッククラッシュのように、昭和の価値観のままで開き直る思考と行動を選択する人々も見受けられる。

この疑問に対して『訂正可能性の哲学』が出版された1か月後に翻訳されたSF小説がひとつの可能性を映し出してくれている。

SFマガジン』2023年12月号に掲載されたグレッグ・イーガンの新作中篇「堅実性」という作品だ。『訂正可能性の哲学』を読み終えた後に「堅実性」を読む順番をぜひお勧めする。この順番でご覧いただくと、読後感があまりにも衝撃的な文芸作品に変わる。

この作品には、『訂正可能性の哲学』が提示したルール・チェンジのダイナミズムが、マルチバースの手法を用いて極端に描かれている。小説の主人公だけがマルチバースの世界で活躍する話ではなく、驚いたことに世界中の誰もがマルチバースの世界に巻き込まれてしまう。ある日突然、自分以外の人や名前のある掲示物が目を離したすきに常に変わってしまう世界になるのだ。

イーガンは「堅実性」でマルチバース作品のような空間が、日常的にあらゆる人に同時に起こり続ける世界を描いた。目を離すと自分の家族が別の世界線の「自宅」にいる別の家族に変わってしまう。文字通りに「家族が常に訂正される」。それぞれの人々が元の共同体(世界線)にいた記憶は持ちつつ、常に新しい共同体(世界線)の人々と暮らすことになってしまう内容だ。

つまりは主人公だけが新しい世界を作りあげるのではなく、しかも新しい世界を作りたいか否かの意思決定に関わらず、誰もがルール・チェンジャーやゲーム・メイカーの立場に否応なくなってしまう。

この作品の結びでは、主人公は元の家族にはもう会えないし、主人公が暮らす共同体の日常には大混乱が起きてしまったが、訂正され続ける周囲の環境を受け入れることが共同体の維持に必要だと、人々は静かに答えを出していく。

イーガンを読み終えると『訂正可能性の哲学』が考える民主主義は、マルチバースの世界観、可能世界論的な思考と行動と深いかかわりがあると気づかされる。

興味深いことに、2010年代後半から2020年代前半にかけて北米ではマルチバース作品が流行した。その裏で日本では「異世界転生もの」が盛り上がった。この点は一考する余地があるかもしれない。

なおこのコンテンツの違いについて、こちらも『訂正可能性の哲学』の1か月後に出版された三宅陽一郎の小論「異世界転生とマルチバースと未来のコンテンツ」(『ゲンロン15』所収)が、両ジャンルの比較整理として非常にクリアになるのでお勧めだ。

マルチバースはあくまで一つの世界の中に留まる「行きて帰りし物語」だ。その世界を分裂させながらも、主人公が活躍する現世の世界に、たくさんの世界線の物語を内包しようとするジャンルだ。

主人公ごとに分岐した世界、場所ごとに分岐した世界がバージョン違いに存在する。マルチバースは一つの物語の中に様々な物語を内包すると同時に、一つ一つの物語さえもが多重化されている。多様性を重んじて、分裂した世界と向き合い、別の世界線は別の現実の可能性を見せてくれる。

多様性の中に希望を見出そうとする姿勢、主人公が現世の世界を良くしたいと考えて運命を変えようと行動をする姿勢。マルチバース作品はまさに『訂正可能性の哲学』が考える物語の伏線回収の思考と行動だ。

主人公の世界のみならず、コンテンツの外側の現実においてもすでに世界は分断されている。分断された世界が平行して動いていることを表現するマルチバース作品は、北米らしいテーマである。

一方の日本の異世界転生ものは、悲劇的な現世をリセットして異世界へ行き、人生のやり直しを堪能する「行きて帰らぬ物語」だ。分断された世界とは向き合わずに、人生のグレート・リセットを望むかのように主人公は現世から逃避する。

異世界転生ものの定番の舞台は中世ファンタジー風のゲーム世界であり、設定や能力までもが厳密にルール化・数値化され、ステータス画面の数字をアップさせていくことが目標となる世界観だ。この思考と行動で、ルール・チェンジャーやゲーム・メイカーになれるのだろうか。

おそらく100以上のコンテンツを消費しているぐらいにぼくも異世界転生ものが好きだが、この比較をふまえると、マルチバース作品をもっと評価したほうが良いのではないかと考えている。

『訂正可能性の哲学』が示した共同体論、公共性、民主主義は、ぼくらは諦めずに分断された世界の伏線回収ができるはずだという希望を示してくれる。

理想や正義、グレート・リセットを掲げるだけでは終わらせない、当事者やそれを支える人々の感情的で私的で文学的な言葉や声を具体的に橋渡しをしたい人の理論書として、本書は参照され続けるだろう。