小さな flaneur のテキスト

1985年4月4日、東京生まれ。

新しい生活様式が生み出した21世紀の透明人間——加速主義者が描くデジタル・パノプティコンの夢

倫理と道徳のどちらが優れているのか。区別をして選択をする対象なのだろうか。この二項対立の設定をしてしまってから、ぼくはNPOの具体的な現場活動の本質を探そうとし、あるいは普遍的な価値を追求しようとし、答えの出ない期間が続いている。

NPOやコミュニティの活動において、共感マーケティングや物語(ナラティブ)を誰もが口にする。企業活動でも注目されるキーワードになった。自分ごと、当事者の言葉が広く世間に知られたタイミングと同じくして、共感はもてはやされる言葉となった。

この反動で、共感の言葉をできるだけ使いたくない、当事者に本当に共感することなど不可能だと、拒もうとするNPOの人たちもいる。当事者になれない自分は、本当の共感など不可能だというように。

米国の第44代大統領 バラク・オバマが採用したことで有名となった社会運動の戦略、コミュニティ・オーガナイジングに注目が集まっている。社会運動を速く強く進めようとする人たちに好まれている。物語による共感で、市民活動のチームをつくり、戦略を実践する目標達成の手法だ。これは主体化できないことを不満に思う人たちが、友的関係を明確にして、敵をやっつけることで主体化するモデルにとって、最適な手法のようだ。

書店では倫理的なテーマが注目を集めている。新刊・売れ筋の人文書コーナーでは、ケア・共感・フェミニズムが平積みされ、特設コーナーのフェアが組まれている。ぼくも読む書籍はケア・共感・フェミニズムがテーマのものを手に取ることが多い。

けれどもケア・共感・フェミニズムの複雑さ、答えの出なさに、NPOの仕事をするうえで悩み続けることが多くなった。いろいろな角度から考えてしまい、しなくてもいいと指摘される配慮をし、過剰になった自意識によって、仕事における意思決定がスムーズにできなくなっている感覚がある。

たしかに人間らしさを基礎にした倫理観は、自分の生き方や思考、人生が広がる。けれども、少しばかり価値観が増えすぎてしまい、意思決定に迷ってしまうように感じている。迷子になりながらも、当事者研究フェミニズムの書籍ばかり手にするぼくがいる。この倫理観で答えを見つけたいと、内なる声がささやいてくるのだ。

このような倫理観、相対的な社会の価値観が広がりつつ、他方で、最大多数の最大幸福を掲げる「功利主義」を意思決定に採用し、「正解」を発見しようとする大きな潮流がある。とりわけビジネスや公共領域における投資、費用対効果の説明において、功利主義は採用されている。数字による評価、プレゼンテーションが当然のように求められる場面で。場合によってはNPOの事業活動、資金調達のためのコミュニケーションにおいても、功利主義的な費用対効果の説明責任が求められる。

それは「効果的な利他主義」と言われたりもする。エビデンシャリズム(証拠至上主義)の亜種とも言い換えることができるかもしれない。数字に限らず、ある基準から見て一義的なものを採用し、多様な解釈を許さずに、最大多数の最大幸福を提示する。社会は、ほんの数種類のパラメーターに従って評価が行われ、お金の流れと物事がスムーズに進んでいく。

ぼくらは、答えは出ないし意思決定を迷わせる「倫理」を考え続けることも好きだが、一方で社会全体としての答えが定まっていて、「正しさ」や「善」を指し示すことのできる「道徳」を同時に欲している。

功利主義がもたらす道徳は、正解にたどりつけそうに感じる。けれどNPOの人たちは、数字を中心とした功利主義に嫌悪感を抱く。最大多数の最大幸福も、社会的包摂の観点でこぼれ落ちる人たちやマイノリティはどうなるのかという懸念。もちろん、NPOの人たちだって「誰ひとり取り残さない」ことは不可能だと理解している。そこまで夢想主義者ではない。ただそれとこれとは別で、過剰な資本主義、新自由主義的な価値観は認めないという雑な常套句を用いて、功利主義を生理的に受け付けない。

功利主義が嫌、そして逆の方向からケア・共感・フェミニズムがつくる物語中心主義も心もとない状況に対して、別の方向性を示すのは意外と大変である。エビデンシャリズム、証拠至上主義のような強迫的な態度に至るのも違うと思う。2020年と2021年はこれに悩み続けた。2022年もこれに悩み続けるのだろうか。

2020年3月2日の小中高校の「臨時休校要請」、同年翌月4月7日の「緊急事態宣言」発令以来、社会が感染症から抜け出せないまま、もうすぐ2年が経つ。

21世紀は、人間らしさを求める倫理的な自由の問題、例えばケア・共感・フェミニズムの大きな時代が到来する、そんな予感が社会を覆っていた。

もちろんいまもこの流れは健在である。一方で2020年代がはじまってからは、その倫理観だけでは何も解決できなかった。とりわけ感染症対策において。

感染症を乗り越えることをきっかけに、最大多数の最大幸福、つまり功利主義による解決策と道徳観が社会の中心に躍り出たとぼくは考えている。20世紀のSF小説が描いた、技術の進歩と道徳の進歩によるユートピア / ディストピアが社会実装されるイメージが、全世界で現れつつある。20世紀が予見していた21世紀が、2020年から本格的に始まったのだ。

社会の風潮は功利主義に邁進している。過剰な資本主義や新自由主義的な価値観だけが原因ではない。公平、計算、規則、可視化による健康中心主義の安全メカニズムによって、社会の全体最適化が求められ、ぼくらはそこから抜け出せなくなりつつある。

感染症がさらにこれを後押しをした。人間を、人という種、公衆(パブリック)とみなしている。言い過ぎかもしれないが家畜扱いだ。いわゆる生政治である。この人口の生に働きかける統治のテクノロジーは、功利主義と相性がいい。

21世紀の功利主義をもっと身近で具体的な例をあげると、ビジネス領域なら設計主義、行動経済学と相性がいい活動だ。NPOの寄付集めなら行動経済学の視点に期待が高まっているような考え方だ。

生政治が全面化したような世界を、韓国で生まれ、30代からドイツ在住の哲学者ビョンチョル・ハンは「透明社会」と表現した。また彼はそこを、「デジタル・パノプティコン」と呼ぶ。

パノプティコンとは、国家が権力を隅々まで浸透させるための一望監視のシステムである。近代のアイディアであり、下記がパノプティコンの構想図だ。パノプティコン功利主義を体現している。なぜならパノプティコンの構想図は、功利主義の祖と言われるジェレミ・ベンサムが描いたものだからだ。

パノプティコンは、例えば刑務所の設計案になっている。またそれは、都市において革命が起きた時にどこに兵営を設置し、効率的に軍隊を投入するかのイメージに役立つ。パノプティコンは、国家権力による監視と矯正の規律訓練型のメカニズムだ。人間を「人口として生かす」ために、権力行使の現場で高いコストパフォーマンスを実現する装置なのだ。

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パノプティコン wikipedia より

パノプティコンは近代で終わらなかった。2020年からはじまった感染症に翻弄される社会は、権力による一望監視のパノプティコンを、別のかたちですすめた。

公衆衛生の観点で、人間の行動と移動を制限した。医者が患者を父権的に病院の中に閉じ込めるように。都市生活や社会福祉が、パノプティコン型の監視の構造と一緒にすすんだ。近代の生権力のアイディアが、社会で重要かつ緊急措置であると認められ、そのまま政治に作動してしまった。

さらに、ビョンチョル・ハンの透明社会を念頭に入れると、感染症に翻弄された社会は、デジタルのネットワーク化によって、新しいパノプティコンを築きつつあると分析できる。

近代のベンサムパノプティコンの展望性は、権力構造と支配構造の基礎を与えていた。パノプティコンの中心に、主体性ないしは主権性があった。見えない監視人が常にそこにいるということを、人々が意識するメカニズムだった。

21世紀の新しいパノプティコンの特徴は、自分が自由であると思い込むことである。ここの入居者は、互いにネットワークを結び、激しくコミュニケーションをする。隔離され、孤独に監視されるのではなく、入居者同士の過剰なコミュニケーションが透明性を確保している。

透明社会における新しいパノプティコンの住人は、自分自身を見せびらかし、みずからむき出しになる。住人自身がデジタル・パノプティコンの構築と維持に積極的に加担している。デジタル・パノプティコンの特殊性はここにある。

この特殊性によって、近代の設計図と異なる、一望監視のシステムを欠いたパノプティコンになった。展望する中心地点とその周縁の区別が消え去り、さらに効率的なものになった。人はあらゆる側面から、あらゆるところから、それどころかあらゆる人によって、発言と振る舞いが照射されうる。

透明な社会は、見事に監視体制を民主化させた。パノプティコンの管理者・監視者は、住人間で互いに移行しあっている。新しいパノプティコンは、下層の人が下層な人に監視されるだけでなく、上層の人も下層な人に監視される。あらゆる人があらゆる人を可視性と管理を引き渡す。思い出してほしい、感染症において互いにくまなく照らし合った「自粛警察」の社会を。

この全面的な監視の「透明な社会」は、非人間的な管理社会への退行となったように感じる。行き過ぎた監視体制の民主化で、誰もが誰かを管理する。全面的な管理は行為の自由を根絶し、最終的には強制的同一化に至るだろう。

注意してほしいのは、ビョンチョル・ハンは透明性そのものに異議を唱えているのではない。イデオロギーとしての透明性を問題にしている。例えば、行政や公共分野の汚職や情報公開の透明性そのものに異議を唱えているのではない。むしろこれらは透明性が歓迎される対象であると彼は示している。

問題なのは、現在の社会システム全体に内在してしまい、生のあらゆる場面に入り込んでいる透明性である。彼の透明性への批判は、透明性のイデオロギー化、物神化、全面化に向けられている。とりわけ憂慮すべきこととして、21世紀の透明社会が管理社会に転化しつつある状況を指している。

彼は、イデオロギーとしての透明な社会には、もうひとつ大きな問題があると警鐘を鳴らしている。近代の功利主義は、最大多数の最大幸福から、社会全体としての答え、「正しさ」や「善」を指し示す道徳の在り方をめざしていた。けれども透明社会、あるいは21世紀のパノプティコンは、かつての功利主義が追求しようとした道徳ではなく、「経済」における最大多数の最大幸福を追求していると懸念する。

近代のパノプティコンは生政治的であったが、その時代の正しさや善をめざす道徳的な振る舞いを追求していた。公衆衛生や都市計画の観点で、道徳の改善、健康の保持、教育の普及をめざしていた。

透明性を強制する21世紀の「デジタル・パノプティコン」は、近代の一望監視システムのようなあからさまに道徳的な命法、生政治的な命法ではなくなりつつある。それは、経済的な命法に変わってしまったのではないか。

それでは、近代の道徳的な命法とは何だったのだろうか。例えば18世紀の政治哲学者 ジャン=ジャック・ルソーは、心の透明性を要求していた。ルソーは道徳的な考え方や行動原則の例として、「外から中の様子が見える家」に住んでいたローマ人を挙げた。近代の透明性は、完全な家に住んでいるローマ人であり、それが「道徳の掟」にしたがっているということになっていた。

21世紀は外から中の様子が見える家どころか、「物質的・非物質的なケーブル」によって「穴だらけ」の家になった。ルソーの道徳の掟にしたがった完全な家は朽ち果てて「コミュニケーションの風が隙間から吹きすさぶ廃墟」になった。これが「デジタル・パノプティコン」である。コミュニケーションと情報のデジタルな風が、あらゆるものを貫通しあらゆるものを透明にする。

透明性の媒体としてのデジタルな風は、道徳的な命法になどにまったく従わない。デジタルな風は、近代に議論が重ねられてきた真理の神学的・形而上学的な媒体であった心がない。吹き抜けていくデジタルな風は、ルソーが要求した心の透明性どころか、社会をただただ露出し、暴露していきかねない。

デジタルな風の透明性がつくる管理社会(デジタル・パノプティコン)において、自分がどのような人物なのかを過度に露出することが、経済的効率性を最大化できるようになったことを考えてほしい。SNSのフォロワー数が成功の指標になってしまった。経済的指標が幸福の指標になったかのような世界ができたのではないだろうか。

過度な露出が幸福を生み出す世界は、自分自身をくまなく照らすことで、自分は自由だという感情すらを伴わせる。経済的な成功には、他人をくまなく照らすことよりも、自分自身をくまなく照らすことのほうが効率が良い。

ビョンチョル・ハンは、デジタルな透明性はポルノグラフィ的だと言及する。デジタル・パノプティコンで追及されるのは近代功利主義心の道徳的な純化ではなく、最大の利益と最大の注目である。くまなく照らすことによって最大の収益が約束されるのは、ポルノ社会だと指摘する。

くまなく照らす、展示物のような空間のコミュニケーションには複雑さなどかけらもないだろう。そうしたコミュニケーションや図像は一義的であり、やはりポルノグラフィめいている。このような図像には、反省したりよく目を凝らしたり熟考したりすることを引き起こすであろう屈折がまったく欠けている。近代芸術を鑑賞することで生まれてきたような、貴族階級・庶民階級を越える人々の想像力の喚起など無いのではないか。

彼は意味と距離についても分析している。展示社会、ポルノ社会において複雑さは、コミュニケーションを遅くするため嫌われている。コミュニケーションを加速するためには、複雑さを削いでいき、無感性的で、過剰さが求められるのだと。

意味とは遅いものである。無感性的で過剰なコミュニケーションは、意味のコミュニケーションよりも速い。大量の情報とコミュニケーションが加速し続ける循環世界にとって、意味は邪魔なのだ。それゆえ、透明性は意味の真空を伴う。真空世界のハイパー・コミュニケーションと呼んでいいかもしれない。

距離も、コミュニケーションと資本の循環を加速させるにあたって邪魔になりかねない。透明社会にとって、いかなる距離も、除去しなければならない否定性として現れる。透明社会はその内的倫理にもとづいてあらゆるかたちの距離を取り除いていく。

距離が除去された透明性とはつまるところ、「視線とその視線が向けられたものとが余すところなく交じりあうこと」である。すなわち「身を売り渡すこと」である。視線は事物と図像の永遠の放射にさらされる。

透明性の全面化、イデオロギー化は猥褻な社会なのだ。目的を越えて加速する過剰な活動性(ハイパー・クリエイティビティ)、過剰な生産(ハイパー・プロダクション)、過剰なコミュニケーションは猥褻だと彼は指摘する。

この過剰な加速(ハイパー・アクセラレーション)は、もはや実際なにも動かさず、なにひとつ実現することもない。その過剰さにおいて、過剰な加速は運動が向かう先を越えていく。右派加速主義、左派加速主義などは、もはや右派でも左派でもない、庶民が理解できない過剰なイデオロギーになりつつある。これは自分自身を目的として加速する運動になりかねない。運動からその方向性が奪われて、運動を極限へと駆り立てる。加速している状態のまま、運動は消滅するだろう。

ハイパー・コミュニケーションで加速し、透明な社会で照らしあう人々が求めているのは、権力闘争ではなく注目になってしまった。ただただ露出し、暴露され、展示して、猥褻に見せびらかすポルノ社会の目的は、権力獲得ではない。言うまでもないが、権力と注目は異なる。

権力を持つ者は、他者をもつ。他方で、自分自身をくまなく照らして注目を求めることに他者は余計なものである。注目に必要なのは人口としての数字だ。そしてまた、注目は自動的に権力を生み出すわけではない。過剰な加速の運動は、正しさや善を求め、自分たちのコントロールを取り戻そうとしていた社会運動を越えて行ってしまった。

ハイパー・コミュニケーションに他者はいらない。まるで自分が自分一人で存在しているような勘違いをしている人たちが多数いる世界だ。人口的な数字、パブリックな経済的指標があればいい。透明社会、あるいはデジタル・パノプティコンは、「経済」における最大の利益と最大の注目を追求する功利主義の世界だ。「道徳」の最大多数の最大幸福をめざしていた近代の功利主義から、21世紀は遠く離れてしまった。

現代において、功利主義が嫌われているのは以上が大きな理由のひとつであろう。

だからと言って、21世紀の問題をケア・共感・ジェンダーの倫理だけで突破するのも無理筋ではないか。この倫理観をかかげても、ここでも自分一人で存在しているような勘違いで、みんなが自己権威化しているように感じている。平等化をキャッチフレーズに、個々人が小さな権威になってぶつかる場所として、デジタル・パノプティコンは愛憎入り交じる理想郷になりかねない。

近代の功利主義がめざした道徳を、再評価することはできないだろうか。京都生まれの在野の批評家のベンジャミン・クリッツァーの議論は、近代の功利主義をベースに、現代の倫理と道徳の関係を考えさせてくれる。

ぼくたちの心のなかに発生する、ケア・共感をふくめた道徳的な感情は、直観に属する。いわゆるファスト思考、システム1、オートモードとも言われるものだ。この直感は、生存と繁殖を最大限に有利にする進化のメカニズムによって構築されたものと言われている。

直観モードでも、自分の家族や自分が好きな人や、自分が属している集団に対しては道徳的な感情がはたらいて優しくなったり、寛容になったりすることはあるだろう。けれども、自分が好きでない人たちや集団の外側にいる人たちにまで、優しさや寛容の気持ちを抱けることはそうそうない。

感情にもとづいた道徳とは、身内びいきや不公正さを伴うものである。「内」に対する優しさと「外」に対する厳しさは表裏一体になっている。そして、感情に基づいた判断とは近視眼的なものであり、長い目でみて最善の結果をもたらす行動を選択できるとは限らない。

だから、世の中をより良くするためには直観ではなく「理性」に基づいた判断が必要とされる。いわゆるスロー思考、システム2、マニュアルモードとも言われるものだ。

これが社会心理学認知心理学行動経済学神経科学を駆使するジョシュア・グリーンのような功利主義者や、オーストラリアの哲学者 ピーター・シンガー、米国のスティーブン・ピンカー、あるいは「効果的な利他主義」運動を進めるウィリアム・マッカスキルらの基本的な主張であると彼はまとめる。

クリッツァーは、近代的な功利主義がめざした道徳を再評価しつつも、一方で共感の倫理が重要である点も見逃さない。

米国の認知心理学スティーブン・ピンカーも『暴力の人類史』で、道徳において物語的想像力が担う役割を積極的に認めている。17世紀から18世紀にかけて「人道主義革命」が起こり、それまで当然とされていた奴隷制度や囚人に対する拷問、異端尋問や魔女狩りなどを疑問視する声が巻き起こって、反奴隷制度運動をはじめとする様々な社会改良運動につながったことを指摘している。

そして、科学革命によってもたらされた啓蒙主義とあわせて、グーテンベルクによる活版印刷の発明を経て、書籍の流通数が増大して人々に読書の慣習が身についたことも、人道主義革命が起きるに至った要因を担ってたとピンカーは分析している。

当時の人々は、小説家から他人の眼を通して世界を見るということを初めて経験した。貧困に苦しむ労働者階級の状況を改善する必要性を、多くの市民が認識するようになったのだと。

20世紀になってからは、テレビ番組が小説の役割を取って代わった。シリアスな刑事ドラマや愉快な喜劇作品のなかに、人種マイノリティや性的マイノリティの人々が主要な人物として登場するようになった。画面の向こうで演じられているキャラクターへの共感を通じて、視聴者たちはマイノリティが自分と同じように笑って泣く血の通った存在であることに気づかされることになる。物語の登場人物について想像することは、現実に生きる隣人たちの人生について想像することにもつながる。

黄金律と呼ばれる主張がある。隣人の人生を創造することについて、多くの宗教、道徳や哲学で見出される「自分が他人からしてもらいたいと思うような行為を、他人に対しておこなえ」という言明だ。「自分が他人からされたくないと思うような行為は、他人に対しておこなうな」も同様だ。

たしかに、黄金律だけ、共感だけに基づいた道徳には限界があるだろう。とはいえ、「共感の倫理」のような人道主義革命が、権利革命よりも先に到来したという事実が重要であるはずだ。クリッツァーはさらに仮説を展開する。

もし、読書をしたりフィクションを楽しんだりするという習慣を18世紀以降になっても人々が身につけなかったとしていたら。弱者やマイノリティについて物語的な想像力をはたらかせるという経験を人々がしないまま現代社会が到来していたら。抽象的な思考をおこなう能力だけが上昇していたとしたら、どうなっていただろうと。

理論上は、概念を操作したり仮定に基づいた推論ができる人であれば、黄金律は実践できるはずである。しかし、他人に対する共感が無い人が、そもそも「他人の立場に立ってみよう」という動機や意欲を抱けるものだろうか。

仮にピーター・シンガーの言うように道徳はこの世に実在するものであり、それは理性によって発見できるものであったとしても、発見した道徳のとおりに人々が生きるかどうかはまた別の話であるのではと彼は指摘する。

わたしたちが自己中心的な道徳的配慮の輪を拡大させるためには、何らかの動機が必要なのではないか。そして、悲劇的な物語を読んだり観たりして、心が否応なく揺れ動かされることは、それまでは狭い範囲にとどまっていた自分の価値観や考え方が拡がり、他者に関心を向けて想像力をはたらかせる重大なきっかけとなるはずだというのが彼の論旨だ。

クリッツァーは、月並みな結論と前置きしているが、あたたかい共感や想像力と、つめたい理性や抽象的思考のどちらもが、倫理と道徳には必要なのだろうとぼくも考えなおしたい。

たとえば、医療資源の分配やグローバルな貧困などの厳しい道徳問題について向き合うためには、どう考えてもケア・共感だけでは力不足であり、マニュアルモードの理性が必要となるはずだ。しかし、そのような厳しい道徳の問題に対して向き合おうとする動機が理性だけで得られるとも思えない。

米国の倫理学者 マーサ・ヌスバウムは、黄金律を実践するためには抽象的な思考と物語的想像力のどちらも不可欠だと述べている。

物語の登場人物の気持ちを考えてみたり、愛する人が考えていることを真剣に推察してみたりするなど、具体的な他人の視点を取得する経験をした人でないと、「他人のことに配慮して、道徳的な判断をしよう」という意志を獲得することは難しいのではないか。

理性的な判断をくだすことと、共感をしたり想像をしたりすることを二項対立で論じること自体が間違っていたのではないか。共感や想像をおこなうことには、理性を働かすときのように抽象的な物事を対象にしたり、原理やルールを重視したりすることは無いといえども、ある種の思考が含まれているからだ。

シンガーの論じるような道徳的配慮の輪の拡大は、人類の歴史のなかで起こってきただけでなく、ぼくたち個人の人生史のなかでも起こるかもしれないとクリッツァーは示す。

自分のことしか考えない人が、愛する人について考えられるようになって、そこからさらに多くの人についても考えられるようになって、というふうに。子どもが生まれることで、世代を越えた視点を獲得して、社会貢献やNPOでボランティアをはじめる人がいるように。道徳的配慮の拡大は、家族的なつながりを拡げる話なのかもしれない。

そして、相手がだれであれ、対象のことを真剣に考えているうちに「自分はなにをするべきだ」「この場合にはどんなことをするべきか」「このときにはどんなことを優先するべきか」という問いが次々に浮かんでくるのではないか。

おそらく、そういうときにこそ、道徳や倫理について学んだことが意味を持つようになるのだろう。

デジタル・パノプティコンのなかで、メタ認知を否認して、自分一人で存在しているような勘違いのままでいいのだろうか。みんなが自己権威化をして、平等化をキャッチフレーズに、個々人が小さな権威になってぶつかったままでいいのだろうか。

たしかに、世界を過剰に全体最適化し、社会課題の解決をめざす社会論は「新しい人間」を生み出せるのかもしれない。この世界観は、社会を構成する最小単位としての家族を解体し、あらゆるものを共同化して、個人を直接社会に接続することを夢みたようなソ連社会主義を思い出させる。新しい人間は、透明で公共的な存在になるために加速し続ける。個人と全体という対立は無くなるかもしれないが、過剰な加速によって均一化され、個人すら無くなりかねない。

ケア・共感・フェミニズムのような現象学的な視点、アイデンティティポリティクスのオブジェクトレベルの視点の倫理は大事である。それと同時に歴史・系譜のようなメタ視点も大事なのだ。例えば歴史は事実を知って証明することだけでなく、歴史上の偉人の生き方から学べる道徳を伝えることも大切な目的である。

ぼくたちは常に何か、他なるものを参照して生きている。自分が他のものに依存しているということを認めること、自分が他者を通じて主体化したことを忘却しないこと、無視しないこと。

共感と想像力からなるオブジェクトレベルの視点と、理性や抽象的思考からなるメタ認知の視点のどちらもが必要である。「個の倫理」と「全体の道徳」のフレームを移動し続けることが人間の知性であり、このフレームの境界線を常にずらしていくことが脱構築であり、21世紀の啓蒙と関わっている。

この記事を書きながら読み返した文献

  • ビョンチョル・ハン『透明社会』花伝社、2021年
  • ベンジャミン・クリッツァー『21世紀の道徳 : 学問、功利主義ジェンダー、幸福を考える』晶文社、2021年
  • 國分功一郎、千葉雅也『言語が消滅する前に』幻冬舎、2021年
  • イリヤ / エミリア・カバコフ『プロジェクト宮殿』国書刊行会、2009年
  • 鎌田華乃子『コミュニティ・オーガナイジング――ほしい未来をみんなで創る5つのステップ』英治出版、2020年
  • マシュー・ボルトン『社会はこうやって変える! : コミュニティ・オーガナイジング』法律文化社、2020年