小さな flaneur のテキスト

1985年4月4日、東京生まれ。

書評:宮﨑裕助『ジャック・デリダ――死後の生を与える』

宮﨑裕助『ジャック・デリダ――死後の生を与える』2020年1月26日刊行、岩波書店、376ページ

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フランス現代思想を代表する巨星、ジャック・デリダ。著者はデリダ研究および、イマヌエル・カントの美学、崇高論が専門。「生き延び」や「死後の生」、「動物への問い」をキーワードに、デリダの晩年の思想が読み解かれていく入門書。第12回表象文化論学会賞(2021年)受賞作品。

本書における「死後の生」は「来世」や「彼岸(ひがん)の生」のことではない。問題となっているのは、一貫して此岸(しがん)における死後の生である。こちら側の世界の一回的な生、どこまでも有限な生をいかに引き受けるのか、「いかによく生きるのか」である。彼岸に永遠の生や救済を希求することではない。生における有限性が本書のテーマである。

また、「死後の生」の意味を考えるとは、『100日間生きたワニ』のように、死を自覚して、生のかけがえなさを言祝ぐような、メメント・モリ(死を想え)、ある種の実存主義に回帰することが目的ではない。

生と死は、単線的な時間軸の理解で考えがちである。デリダはそうではなく、より根源的な、生そのものが「生き延び(survive)」であるという。どういうことだろうか。

デリダが生前に発表した最後のテクスト「私は私自身と戦争状態にある」(フランス『ル・モンド』紙 2004年8月18日掲載)のなかで、「生き延び」についてインタビューで応えている。なお、2か月後の2004年10月9日にデリダはこの世を去った。

私は、生き延びというこの主題系につねに関心を寄せてきました。生き延びの意味は、生きることおよび死ぬことに付け加わるのではありません。生き延びは根源的です。すなわち、生とは、生き延びです。普通の意味で生き延びると言えば、生き続けるという意味ですが、それはまた、死の後に生きることでもあります。

どいうことだろうか。著者はデリダが、ドイツの批評家 ヴァルター・ベンヤミンの言語論を読解していることから、さきほどのテキストの続きをベンヤミンの翻訳論に即して理解することができると、同じテクストの引用を続ける。

生とは、生き延びです。普通の意味で生き延びると言えば、生き続けるという意味ですが、それはまた、死の後に生きることでもあります。翻訳についてベンヤミンは、一方における、書物が作者の死後に生き残りえたり、子どもが親の死後に生き残りうるというような、死後に生き延びるという意味の Überleben (ユーバーレーベン)と、他方における living on' 生き続けるという意味の fortleben (フォルトレーベン)の区別を強調しています。私の仕事の手助けとなったあらゆる概念、とりわけ痕跡や亡霊の概念は、構造的で厳密に根源的な次元としての「生き延びること〔survivre〕」に結びついていたのです。

Überleben は、「超越」や「過剰」が含意され、みずからの生を超えて生きること、死の危機を含み込みながらそれを乗り越えて生き存(ながら)えることだ。

fortleben は、「継続」や「不在」が含意され、有限な生の延長ないし続行、ないしは、生の不在(死)においてなお生き続けることだ。

つまり、「生き延び(survivre)」という一語が、ドイツ語では Überleben と fortleben に区別されて、「死後の生」のふたつの意味が明示されているというのだ。

著者は、デリダが遺産相続としての死後の生について徹底して考えていたことを示す。相続するとはたんに受け入れることではなく、「再肯定すること(réaffirmer)」だと、精神分析家との共著の対話を引用する。

それは、遺産を受け入れるばかりではなく、他の仕方で投げ返すことであり、生きた状態に維持することです。[・・・] 生は遺産相続から出発して思考しなければならないのであってその反対ではありません。[・・・] 〔遺産に対して〕死の宣告をしないですむのはつねに遺産を再肯定することによってです。その遺産が、生を(生の有限な時間において)救うために、再解釈を、批判を、転位を命じる[・・・] まさにそのときに肯定し直すのです。つまり、その名に値する変革が生じるようにするために、なんらかの出来事、歴史、来るべき予見不可能なものが着来するために、能動的に介入しなければならないのです。

相続は遺産とそうでないものをわける批判的介入であり、遺産を救うためにこそ取捨選択し決定すること、それが生きるがままとなるような生死の境で、その臨界で決断することが必要だというのだ。

翻訳における「作品の死後の生」は、この遺産相続と同様の「再肯定すること」が生じていると著者は示唆する。作品の生は、原作の純粋さを損なう作品への批判的介入によってこそはじめて生きるものとなり、そのような死後の生、生き延びの生なくして存続できない。

本書の各章は、「生き延び」や「死後の生」が、歴史、文化、知的遺産、それらを継承するために不可欠であると洞察を与えている。

第2章は、アメリカ独立宣言の署名をめぐる論考である。署名の反覆可能性(固有名の複製可能性)について。過去に署名者が現前していたという記し。未来でも現前する記し。一回的な特異性を担いつつ反覆されなければ再認識さえない、署名の力のパラドックスについて。

第3章は、デリダの民主主義観。デリダの有名な造語「差延(différance)」をキーワードに、民主主義を「車輪(roue)」の形象によって特徴づけている。

デモクラシーの人民(demos)は、自己に向き合い、自己に関係し、自己を目的として回帰する車輪のように機能して自己自身を支配(kratos)する。支配する自己は、支配される自己でもあり、ウロボロスの蛇のごとく、支配の軸(自己)が常住不変のまま静止している体制ではなく、車輪のように回転することで成立する体制であるというのが、デリダの民主主義観のベースになっている。著者の注釈は非常にわかりやすくさらに続く。

上記の自己回帰、自己循環の運動を可能にする民主主義の権能をデリダは「自権性」と呼んだ。支配の源泉たる主権的な一者として君臨していることを述べているだけではない。主権への主張が「車輪」の回転運動としてしか維持しえないような繰り延べの時間制のうちにある。デモスの支配的中心は、特定の一者へと集中するのではなく、誰でもない任意の者へと次々に受け渡され循環してゆく、輪番制(alternance)の働きなのだ。

デリダの民主主義の繰り延べ構造。民主主義は自己実現を図ろうとするからこそ自己を破壊(差異化)し続けなければならない。そのかぎりでいまだやってこない「最後の時」を繰り延べつつ待ち続けることができる。民主主義の差延的構造、「差延」が空間化であると同時に時間化である定式の理解が深まる具体例であった。

第4章は労働のヴァーチャル化。時間労働は、時間と効率の尺度で労働価値を数値化した痕跡しか残さない労働である。リモートワークによって、空間もヴァーチャル化が進んだ時代に、労働の再定義を論じるヒントが提示されている。

第5章と6章、7章は「動物への問い」が中心テーマだ。人間中心主義への懐疑から生政治分析への展開は、彼岸ではなく、「此岸(しがん)における死後の生」について21世紀の問題群を考えるうえで必読の内容だ。

「此岸」とはそもそも有限な生である。そしてこの生について、いまぼくたちは「なかなか死ねない時代」に生きている。生権力、PCR検査、延命治療あるいは安楽死をキーワードに、科学技術・医学のおかげでぼくらは無限の生のなかにいる。この反面、有限な生を死ねなくなってきているのだ。

「此岸における死後の生」や「生き延び」は、ぼくの仕事に照らすと、いかに公共性をつくるか、またNPO活動とその事業承継について考えることにつながる。そしてここまで本書が展開してきた、此岸における「死後の生」は、名を遺すことであり、贈与であり、署名の力であった。

有限的なぼくらの生の可能性、「此岸における死後の生」は、公共性や歴史の構造でとらえ直すことができるのではないかと。これは全体主義にいきがちな思考であることをもちろん自覚しながら以下続けたい。

21世紀は、個人の健康を徹底的に管理する社会だ。社会で暮らすために健康診断、ワクチン接種、禁煙と禁酒。生が管理され、自由に死ぬことができない状態である。つまり「個体の生」を至上価値とする社会になりつつある。

デリダの「此岸における死後の生」は有限な生を「いかによく生きるのか」であり、有限な生を「効率よく生きるのか」ではない。「個体の生」を生権力にゆだねたあげく、有限な生そのものも死なせてしまっていないのだろうか。

署名の反覆可能性、翻訳あるいは遺産相続の再肯定、民主主義の繰り延べ構造。歴史と文化における「生き延び」は生命そのものにはなく、生を超えた死後の時間からやってくるとデリダは考えた。「個体の生を超える生」を引き受けてこそ「個体の生」がはじめて生きられるのだと著者は考える。「生き延びる」ことを社会にゆだねないということだ。

少々残酷な表現になるが、「死後の生」や「生き延び」は、「個体の生」が死んでも誰かが代わりをする「群れの生」だ。個体の死が交換可能である論理は単純にダメだとする「個体の生」至上主義ではなく、「群れの生」として生きることが、本当のサステナブル、社会をつくるということではないだろうか。「生き延び」とは、群れとして存在し、固有性を失わないまま、交換可能な集団論であり、公共性をつくる思考ではないだろうか。

群れとしての公共性は、具体的にどうやって実現するのだろうか。固有性を失わない、交換可能な集団論について、ハンナ・アーレントが『人間の条件』に挙げた「work(制作)」に着目したい。

アーレントは、他者と出会う場としての公共的空間には、「複数性」の存在が必要であると展開している。

シンプルにいうと、社会をつくるということは、みんなで作るということだ。公共空間、文化や歴史、知的遺産の痕跡を、作品としてみんなでつくる。言い換えるなら、複数存在として、「群れの生」によるモノづくりの制作(work)の話でもある。公共性は個人の生だけではつくれない。声の大きい一者が君臨する政治活動(action)だけでは公共性はつくれない。

例えば、みんなで都市空間をつくっているのであれば、設計者である建築家が亡くなっても、都市はみんなでつくり続けることができる。「群れの生」によるモノづくりは、本書の第4章にあった労働のヴァーチャル化、労働の数値化を超える話だ。制作(work)の職人(プロフェッショナル)としての固有性がありつつ、技術を受け継ぐ複数存在が支えている。複数存在による交換可能性が、公共的空間をつくるのではないだろうか。

そして、デリダは労働(labor)と区別して、職業(profession)の概念で労働を再定義しようとした。この語源となるラテン語の professio は、「公的に宣言すること、公言すること」を意味する。労働が、責任の意思表明をする、誓約や宣誓を自由に公言する、告白としての職業になる。職人の制作あるいは職業としての制作は、パフォーマティブな力をもつ労働になる。

本書の第2章にあった「アメリカ独立宣言」を思い出してほしい。パフォーマティブは、出来事を産み出す力をもっている。署名の反覆可能性(言語の力)とは、慣習化・規範化されて事後の痕跡となる「生き延び」であり、社会を(自由を)創設する。

パフォーマティブな力をもち、「生き延び」や「死後の生」として刷新された、労働( labor )と制作( work )の「複数存在」が、公共的空間を支える。デリダのプロフェッションの概念を補助線にすることで、アーレントの公共性、サステナブルな活動( action )の組織化が実現するのではないだろうか。

固有性を失わずに、交換可能な複数存在として、集団作業で何かを作る共同事業が、公共性やNPOの活動を成り立たせている。「死後の生」や「生き延び」の思考による共同事業は、地球規模で本当の意味のサステナブルまでの射程をもった議論となる。

これはカントの『判断力批判』、美学論にも展開できるかもしれない。カントが考えた美的判断とは、趣味判断のことであった。趣味判断は私的であるが、趣味は「群れの生」をつくることができる。芸術作品の前で、あるいは制作された空間のなかで、「個体の生を超えた生」を媒介して、あたかも普遍的なようなおしゃべりの「群れの生」が生まれる。これは政治(action)的な普遍性の原理、カール・シュミットの友的理論の原理とは別様の、制作(work)がつくる私的な趣味の公共性である。

公共性とは何か。それは家族という最小単位の維持や規模だけで考えることではない。「死後の生」や「生き延び」は、ぼくらがもともと家族からの解放を志向していたこと、あるいは「個体の生を超える生」を大事にしていたことを思い出させてくれる。本書は、「個体の生」至上主義になりつつある21世紀において、生を別様に思考することができる論考集だ。