小さな flaneur のテキスト

1985年4月4日、東京生まれ。

NPOへの寄付と宗教への寄付の違い—— 来るべき公共性、あるいは、神の存在が無い古代中国の啓蒙の到達点

2022年7月8日の「安倍晋三銃撃事件」のあの夏から、日本社会は旧統一教会の問題にケアをし続ける世界に一変した。同年12月1日には異例のスピードで被害者救済新法案が国会に提出された。この法案の名称は「法人等による寄付の不当な勧誘の防止等に関する法律案」であり、その名の通り、宗教法人に限らず、個人から法人や団体への寄付一般が対象となる。

寄付をする行為は何が引き金になるのだろうか。寄付をする心とは道徳心が高いことなのか。寄付先はどのように選べばいいのだろうか。悪質な宗教法人に寄付をして生活の全てが崩壊してしまうのと、それ以外の法人に寄付をすることは同じなのだろうか。

ところで、寄付の名称は多様だ。寄付、献金喜捨・布施・賽銭、寄進・奉納・初穂料、募金・カンパ、遺贈・贈与、ふるさと納税クラウドファンディング投げ銭・スーパーチャットまでを、寄付という名をめぐる行為と考えていいかもしれない。

寄付の対象と手段も多様である。金銭・金券・有価証券、物品(動産)、不動産、役務(サービス)、権利(著作権等)、ボランティア(労働の提供)、現金、振込、クレジットカードなどを含めて考えることができる。

寄付をする行為とその心境、そしてどこに寄付をするかの選択は、実は誰もがしたことがあるからこそ議論ができる、古くて新しく、とても現代的なテーマなのだ。

なぜぼくらは宗教的なものに寄付をしてしまうのだろうか。あるいは宗教への寄付と、NPOへの寄付はどこが似ているのだろうか。

日本の宗教学者島薗進は2020年の著作において、新興宗教(以下、新宗教)の特徴に「病なおし」「心なおし」「世直し」の3つを挙げた。ぼくらは宗教にこの3つを期待して信仰や参加、そして寄付をする。

宗教はこの3つの特徴をベースに、ぼくらがこの世でより幸せな人生を送ることを助けてくれて、その知恵をくれるのと同時に、実質的なサポートもしてくれると考えられている。

ひとつめの特徴の「病なおし」は、呪術、手かざし、ご神水、祈りによる癒しのことだ。治療ができない病気や、家族が抱える苦しみへの解決策として、わらにもすがる思いで病なおしを掲げる新宗教に人々は入信してきた。

特に1950年代以前の日本は結核、子どもの死亡率、保険制度の未整備、ビタミンB不足の脚気などに困っている人々がいて、入信する大きな理由には時代背景もあった。

新宗教のふたつめの特徴の「心なおし」は、自分の心を見つめて心のあり方を変えていくという教えだ。自己中心的な感情や生き方を変え、他者と調和するものにしていくことをめざすあり方だ。

例えば創価学会の「人間革命」は心を変えると、運命が変わると説く。利他的になることで、自分自身が幸せになれるという教えだ。なんだかNPOのボランティア精神や、自己肯定感を高める教育NPOの活動のようだ。

新宗教の「心なおし」は自己啓発セミナーや、社会貢献の志をもつ企業経営者のあり方に近い。従業員と経営者が一体になり「心なおし」的な教えを掲げている日本企業と新宗教の類似性はある。

幅広い世代に自伝が売れ続けている昭和の経営者は、修養道徳の宣布に力を入れたり、繁栄によって平和と幸福を名にした研究所を創設したり、祈りの経営を掲げたり、私塾を運営してきた。なお、エコロジーの実践で有名な新宗教生長の家が組織する「栄える会」には、5,000人の経営者が参加しているという。

さらに現代では、「病なおし」と「心なおし」はスピリチュアリティにも変容している。

高学歴層のビジネスパーソンはひたすら瞑想することを好んでいる。この欧米経由で仏教由来のマインドフルネス瞑想は医療や心理学、企業研修で急速に広まった。

サブカルチャーの分野でも北米の「ニューエイジ(New Age)」、1980年代の日本では宮崎駿風の谷のナウシカ』、中国からの「気功」などをはじめ「精神世界」が大流行した。

入信理由として大きかった病なおしと心なおしの「死」や「悪」はあまり問題にされず、「自己変容」や「高次の意識にいたること」あるいは「解放」「癒し」をめざすように形を変えて受容されてきている。

さいごの特徴の「世直し」について、新宗教は平和や地球規模の環境問題や災害問題を語ってきた。戦前と戦後において日本の国が変わり、理想的な社会に近づいていくメッセージを新宗教は発信している。

たとえば、世界宗教者平和会議があり、日本会議による国防と天皇崇敬、生長の家エコロジー思想もこれにあてはまる。2017年のノーベル平和賞を受賞したNGOICAN核兵器廃絶国際キャンペーン)の国際パートナーが、創価学会インターナショナルSGI)であったのも、新宗教の「世直し」運動として見逃せない。

NPO新宗教が志向する「病なおし」「心なおし」「世直し」とほぼ一緒の活動をしているのではないだろうか。両者とも個人の変化、あるいは社会に変化を起こすことをめざしている。そうなると、宗教への寄付とNPOへの寄付の違いは無いのだろうか。

NPOはたしかに「病なおし」「心なおし」「世直し」を志向してきた。学生運動から社会運動、政治運動、労働運動、市民運動反戦運動住民運動、公害反対運動、ボランティア運動につづく、たどり着いた先にあるのがNPOだ。だからだろうか、NPOが怪しい団体と警戒されてしまうのは、つまり新宗教の特徴とかぶっていることが原因なのかもしれない。

新宗教NPOの類似点は3つの特徴だけにとどまらない。現代の新興NPO、あるいはリベラルが展開する政治運動のロジックと、新宗教の布教ノウハウの類似点も見出せる。

リベラルの政治運動はネグリ=ハート以降、否定神学マルチチュード路線、つまり「とにかく連帯すればいい」路線である。ひたすら野党共闘路線のようなことだ。ここに「アイデンティティ・ポリティクスの無制限な肯定」が加わる。

この「とにかく連帯しましょう」&「そのままのあなたを肯定してあげる」の組み合わせは、新宗教の布教ノウハウとそっくりではないだろうか。

リベラルの運動の内容も宗教戦争みたいになっている。理性に基づいた、どちらが正しいかの正戦の論理だ。宗教的なので議論の余地もなく過激化をし続け、運動のシンボルはどんどんカリスマ化されて批判も許されなくなっている。

もちろん、リベラル系の政治運動だけでなく、保守系の運動も同様の手法を取り入れている。例えば、一見すると価値観が合わなさそうな、トランプ支持者とヴィーガンを志向する人々が、反ワクチンで一致してバイデン不正選挙の訴えで手を組み協力することだ。2022年のあの夏に、保守を志向する参政党がオーガニック右翼の路線で躍進をしたのもかなり近いロジックだ。

宗教とNPOの比較について、このように素直に考えれば、NPOもあやしい団体で見解一致、やむなしになるかもしれない。けれども別のアプローチで再検討をしてNPOを解釈し直し、宗教への寄付との違いを考えたいと思う。

これはいわゆるファンベースあるいはコミュニティマーケティングのようなビジネスロジックと、寄付の類似性のアプローチに対しても、NPOへの寄付は別のアプローチに開かれていることを示唆できると考えている。

神が約束する理想世界のコミュニティに入るための寄付でもなく、等価交換に基づいたスピリチュアリティや、商品交換の自己啓発に変容した宗教への寄付でもない。NPOとそれを支える寄付によって開かれる社会の回路、「来るべき公共性」について論じていく。

NPOが、社会貢献や社会課題の解決を担うだけであり、あるいはそれを志向する個人の自己実現、社会の変化と個人の変化を掲げるだけなら、宗教との違いはたしかに見出しづらい。

むしろこれら観点だと、社会貢献の規模や歴史、法人数をふまえると宗教の方が、公共的な領域を担う事業の先達、世直し活動の大先輩である。

それではNPOは宗教と何が違うのだろうか。

NPOは例外的な状況にいる一人ひとりの人間を社会のルールに組み込み、未だ見ぬ公共性を社会に構築するダイナミズムを持っているとぼくは考える。

まず例外的な状況とは何か。例えば、当事者から話しを聞けば、明らかに苦しんでいる人が他にもいると想像できるが、社会課題になっておらず、報道もされていないような個人の状況だ。

社会の一員(群れ)として認識されていない個人がいる。マイノリティ(の群れ)としても認識されていない個人だ。NPOはこの例外的な状況にある個人(当事者)を発見し、その個人と一緒に社会のルールの標準を上書きする役割をもっている。

たとえば社会制度の外にいる個人が、制度の対象になるように。例外的な状況にいる一人ひとりの人間をきっかけに社会の課題が発見されて、新しい制度ができて、公共性はこれまでもずっと再構築されてきた。

公共性の再構築とは、社会の課題の発見だけではない。「日本人」とは何かということもずっと変わってきた。これも公共性の再構築だ。常に例外がいっぱい出てきて、この人も、この人も、日本人で良いのではと変わってきたことで、社会のルール、制度の対象外だった個人が徐々に組み込まれてきた。

もちろんこれは昔からの日本人の基準で考えたら違うはずである。これは昔の日本人の基準からは乱れている日本人のはずなのだ。けれどもその例外的な個人がやってきたときに、でもこの人も日本人だよねとなり、ぼくらは遡行的に「日本人」を後から見い出す。

例外的な状況にある個人を発見して、遡行的にルールや標準を変えることで、国民的な統合、伝統の継承があたかも生まれている。守ることと変わることは同じなのだ。

公共性は常に乱れる可能性がある。社会のルールや公共性はたえず乱れながら、後から見い出されるものにすぎない。さらに言えば公共性が乱れることは、公共性そのものの条件に刻み込まれている。

けれども、公共性の乱れは偶然にやって来るものだ。例外的な個人が、外部からやって来ると公共性は乱れる。新しい公共性の構築は偶然性に左右されている。

NPOはこの偶然にやって来る個人(当事者)を発見して、当事者と公共性を再構築する能動的な仕掛けである。

宗教を信じたらなら、導いてくれる神様や、守ってくれる王様が描く理想世界はやって来るかもしれない。けれども、神様が枕元にやって来るのは明日かもしれないし、今世ではやって来ないかもしれない。宗教における理想世界の構築は偶然性に左右されている。

NPONPOへの参加(寄付)は違う。

NPOは神様や王様のような理念上の上位の権力者はいなく、社会の多数決や、既存の道徳や理性とも対話をして、遡行的に現実を上書きするオルタナティブな活動だ。NPOは未だ見ぬ例外的な個人(当事者)と、未来から遡行的に社会を再構築を仕掛けることができる「来るべき公共性」をつくる装置なのだ。

例外であること、例外的な状況の個人とは群れとして認識されておらず、一人ひとりの人間としても社会に認識されていない。いわゆる不定冠詞( a や an )の個人である。

NPOは社会のなかで不定冠詞の個人に、群れとして複数性( -s や -es )を持たせたり定冠詞( the )を付与するような役割を持っている。不定冠詞の当事者だけでは公共性は生まれない。未分化状態の個人が発見されることで複数性や定冠詞が付くことで、例外を組み込んだ公共性が再構築される。

だから、あらゆるNPOは前例にない活動が大切だと考えているし、例外が大事だと言い続けてきた。

そしてNPOを通じて例外的な状況の個人に寄付をすることができる。ジャンル化される前の区別や分類がされていない、共有や平等、権威の概念が生まれる前の状態の不定冠詞の個人。NPOへの寄付とは、未分化の個人の発見と公共性の再構築につながるのだ。

だからNPOに寄付をすることは、社会のルールや標準の境界線を再定義することにつながる。一方で宗教に寄付をすることは、神の国という名のコミュニティを拡大することには寄与するが、結果としてルールづくりの過程は宗教と社会が互い覇権を握る争いになり、「自分たちの国」以外は単に野蛮で、正しさを教えなければならないという正戦の論理にすら陥ってしまうかもしれない。

NPOは社会にとって既存のルールの外部からやってくる例外的な何かを、能動的に仕掛ける装置である。ぼくらは例外的な状況の個人(当事者)をルールの中に組み込んで、ルールを上書きして社会を一緒に作っていく。もちろん人間ではない自然環境の変化も例外的な状況に含まれる。

社会課題の解決や公共的な事業を担うだけがNPOではない。それだけでは新宗教と変わりはない。例外的な個人と一緒に、社会のルールを上書きする「来るべき公共性」を実行しうるのが、宗教とNPOの大きな違いとして解釈し直せないだろうか。

来るべき公共性、偶然性へ能動的に仕掛けることができる社会の装置としてのNPOの可能性を提示した。

けれども、NPOに寄付をしなくとも、倫理的で誠実( sincerity )で心がピカピカであれば、例外的な状況の個人をぼくらは受け入れることができないだろうか。未だ見ぬ公共性の到来に本当に寄付が必要なのだろうか。

この疑問に対して、内面性を磨くだけでは社会のルールの上書きに耐えられないと考える。

NPOがなくとも、NPOに寄付をしなくとも、心をピカピカに磨くことをめざす清潔さの哲学がつくる公共性はたしかにありえそうだ。これこそ、導いてくれる神様や、守ってくれる王様が描く理想世界に必要なあり方だろう。理性的で倫理的で誠実な人間の群れがつくる理想世界だ。しかしこの世界で、例外的な状況の個人は組み込まれるのだろうか。

現代的にピカピカにした内面の表れとして、SDGsサステナブルを宣言するだけの現象を問題視する声がある。反省しろと言われ続けることに辟易としているマジョリティがいる。このような状況下において、ルールの上書きによるバッククラッシュが起きはじめている。反動的な意見が起き、感情の政治になりつつある。

この議論に、古代中国の思想家で性悪説で有名な荀子の「礼」を補助線にして、来るべき公共性に寄付が必要だという新たな回路を開きたい。なお荀子は、古代ギリシアの哲学者のソクラテスプラトンアリストテレスと同時代人の思想家である。

荀子の礼の議論は、内面性を避ける。むしろ内面の誠実さやピカピカの心では不十分だという議論だ。荀子は感情が外化、結晶化して行動にまでなることが重要だと説く。

米国の倫理学者のマイケル ピュエットの2016年の著作を参照しながら、悪い方に向かう人間の性には、「礼」による介入が必要だとした荀子性悪説を見ていきたい。

荀子は人為的に構築された〈かのように〉の世界をつくり出す人間の能力を、よいものととらえていた。荀子よりも200年前に活躍していた孔子は、礼とは〈かのように〉によって局地的な人間関係の秩序をつくり出すと考えた。さらに荀子は礼とは、広大な〈かのように〉の世界をつくり出して、よりよい世界の構築に役立つと考えた。

荀子は、ねじ曲がった木である人の本性も真っすぐにできると考えた。そのためには〈偽〉、すなわち礼を生じさせる「人為」が必要になるのだと。

荀子は、意識的に自分の本性(自然)に働きかけて、感情や衝動を修めて、律するべきだと説いていた。人為的に構築した「礼」を通じて、自分の本性に行動パターンを根づかせる。幼い子どものようなかんしゃくの衝動、感情をおさえられるようになり、そのようにして、ものごとに対する反応を形成していける。荀子の説いた、感情を外化する、結晶化して行動にまでなるとはこのようなことだ。

〈人為=偽 : フィクション〉と〈かのように〉が性善をつくる。これが荀子性悪説なのだ。

礼とは外に関わることである。内面の誠実さにいかない。マインドフルネスのように内面を豊かにする行為とも異なる。

全力で外見に飾ることで、礼の〈かのように〉は人間を別の次元に開いてくれる。敬意を持っているかのうように、愛してるかのうように、外見を飾ることが礼なのだ。人を愛することに自信がなくても、愛してると言っているうちに嘘が本当になるかもしれない。嘘がいつか本当になることを人はどこかで信じている。

これは偽善なのだろうか。似たように、誠実かのような寄付も偽善的行為だと考えるのは素朴すぎるのではないだろうか。

礼は〈かのように〉の次元をうまく利用した、古くて新しい人間の関係の仕方ではないだろうか。つまり外を飾ることによって、内面が変化する可能性を開いている。礼は内面性にプライオリティをもっていない。礼は感情を行動に規範化していくことで、人間の感情を豊かにする。

今の時代は礼、いわゆる礼儀に満ちたものは偽善で、社会の慣習や礼儀に抑圧されてきた自分の感情に忠実に怒りの声を上げる時代になっている。感情に基づいた怒りで抗議する社会運動だ。

けれども感情の政治は、べつの感情の政治に対して厳しい態度をとる。我が感情の政治はいいが、他の感情の政治には厳しく冷淡だ。

ぼくたちの個性が際立っていけばいくほど、我が感情と他の感情はどんどんセグメントされていって、ばらばらになっている。これで感情が豊かになっていくのだろうか。荀子の礼の可能性を通じて、感情を豊かにできないだろうか。感情の政治に取り込まれない仕方で、感情と向かい合うことができないだろうか。

そもそもどんな倫理的で誠実な理由があっても、普通に考えて礼儀はもつべきである。荀子の礼は、感情が沸騰した状況で感情の問題をやり直そうとする議論だ。感情をもちつつ、ある種の礼を守っていくことが必要ではないか。これがなぜ偽善になるのか。

荀子の100年前の思想家として有名な孟子も、性善説の「惻隠の情」や「憐れみ」は、内面と外面がセットだと説いている。孟子は、生のあり方がそのままで善であると言っているわけではない。人間の生(性)は善ではあるが、そのままでいいというわけではなくて、人間の善の端緒を広げることが重要なのだと。すなわち性善説も、内面が外面の行動にまで及ぶことに重きをおいている。

中国の故事に孟子の「以羊易牛 : 羊をもって牛にかえる」が、性善説の惻隠の情や憐れみを説明してくれている。この故事の概要は、王様がたまたま偶然に牛を連れているのを街中で見たことからはじまる。従者によると、この牛はお祭りの生贄で殺されてしまうらしい。牛に罪はないから可哀想だから助けてやれと王様は命令をする。お祭りの生贄の代わりには、羊がよいだろうと王様が提案したエピソードだ。

この故事に孟子は、羊も可哀想ではないかとの反論もわかるが、王様がたまたま目の前にいた牛を、助ける理由もないのに助けた。まずはこの行為が重要で、ここにまで及ぶことが義の心であると孟子は説いた。

孟子は、放っておけば世の中は善になるわけはなく、目の前にした他者に対して湧き起こった忍びざる心を、行為にすることが大切だと考えた。王様が応答したように、まずは牛を助けることからが重要だと。そこから想像力を通じて、不在の他者にまで拡充させること、善に向かって何らかの作為的な努力をつづけることが性善(説)であるとしたのだ。

現代でもこれは理想論ではなく、ぼくらは偶然の出会いの中で、このような原初形態の行為を発揮している。例えば終戦直後の日本で、たまたま戦争孤児に出会い、かわいそうに思ったから養子にしたというエピソードは、さまざまな物語に描かれている。

人間の性善の端っこを広げる孟子性善説と、悪い方に向かう人間の性を礼によって介入する荀子性悪説は似ている。そもそも荀子孟子性善説を引き受けて性悪説を考えた。

内面と外面のセットが大切であると素朴な議論を展開していることは自覚している。けれども孟子の惻隠の情や憐みと荀子の礼の議論が、例外的な状況にある個人を社会に組み込むダイナミズムを生み出す「来るべき公共性」の向き合い方、NPOの思想的基盤として適切ではないだろうかと考えている。

そもそも定言命法のカント主義と功利主義に基づいた向き合い方では、ルールの上書きに耐えられずにバッククラッシュが社会に起き、NPOと実は相性が悪いのではないだろうか。

一神教的な超自我定言命法、いわゆる周りにどう思われるか関係なく自分の道徳心に従い目的を達成すべしといったカント主義に基づいたNPOもあるだろう。文化左翼、人権意識の高まり、心直し的なマインドフルネスはこのような理性に根ざしたものだ。これがいわゆる誠実さ、内面のピカピカを求める清潔さの哲学だ。

清潔さの哲学を思想的基盤にした、カント主義のNPOは過激化し、感情の政治になりがちだ。そして別の感情の政治に対して厳しい態度をとる。道徳的な内面に基づいて、倫理的で誠実な我が感情の政治はいいが、他の感情の政治には厳しく冷淡になる。礼儀を逸した抗議すらする。

他方で功利主義は「とにかく連帯」の論理に加えて、「そのままあなたを肯定してあげる」の合わせ技で最大多数の最大幸福を取りにいく、信者数や寄付金額を競うような動員のゲームだ。現世利益的な功利主義の判断に基づくことで、道徳心のような内面の議論をスルーする。

しかも、このカント主義と功利主義は一見対立しているようだが、お互いの主張は片方の存在に寄りかかっている共依存の議論だ。功利主義 vs カント主義は、数値化 vs 計算不可能性であり、数字と意味あるいは数 vs 固有名の問題であり、ネオリベ vs 左翼、クレーム対応へのコスト計算 vs 被害者の声は誰にも奪えない、などを対立させた議論である。

理性に根差しているカント主義は、一神教同士の対立のなかで変更されたルールに対してバッククラッシュが起きる。最大多数の最大幸福の功利主義は、内面をスルーして他人の感情に厳しくルールを上書きする。

伝統や国民統合であっても、ぼくらの社会の標準は遡行的に上書きされるのは避けられない。公共性を再構築すること、およびNPOを考えるうえで、カント主義と功利主義の判断は実は極めて相性が悪い。NPOはこのセットの共依存の推論から逃れられないだろうか。同じように、寄付をする行為の判断もこの二項対立から逃れられないだろうか。

この二項対立から別の仕方でかつ、少数派の感情を取り残さない公共性が、孟子の「惻隠の情」であり、それを引き継いだ荀子の「礼」にあるのではないだろうか。

惻隠の情のような反応の蓄積で、感情が結晶化して、行動におよび、範例化するのが礼なのだ。ここまでカント主義の相性の悪さを論じてきたが、範例化については、19世紀のドイツの哲学者 イマヌエル・カント判断力批判』における個人の趣味判断の範例化が、「礼」が公共性を構築する議論の補助線となる。

カント『判断力批判』は、個人の趣味判断の良し悪しが、人々から賛同されるのはなぜかについて示している。カントは趣味判断の良し悪しについて、概念的でも、経験的でもなく、「範例的」なのだと捉えた。

「範例的」とは、個々の実例が、それとしては明示することのできないにもかかわらず、普遍的規則を具現する事態だとカントは考えた。

概念的ではない普遍的規則とは何か。それをカントは共通感官と呼んだ。共通感官とは、あらゆる人々が賛同する「共通の感情」を意味する。

範例的とは、共通感官による判断の事例をとおして、人々が賛同する標準やルールができあがることなのだ。これについて、「概念をとおしてではなくただ感情をとおして、しかしそれにもかかわらず普遍妥当的に、何が気に入らないか、を規定する」原理だとカントは残している。

感情の範例化には、感情の政治でバッククラッシュしない開かれ方のヒントがある。荀子の礼は、自分の感情に閉じるのではない仕方で、他人の感情に接続できる開き方ができるかを問うている。

感情を結晶化して、行動にまでおよび、範例化する。〈人為=偽 : フィクション〉と〈かのように〉は性善をつくり、性を変化させる作為である。それを具体的に、礼儀や法規(さらには言語)の制定として実現する。荀子の礼の範例化は、作為は社会的な実践でなければならないと考えた。

NPOは例外的な状況の個人(当事者)と公共性を再構築する。ここに社会のルールの上書きでバッククラッシュが起きないように、別の仕方として荀子の「礼」を参照してきた。

最後に荀子の礼が説く、感情の結晶化、範例化がなぜルールの上書きに耐えられるのか、新しい回路として期待できるのかについて、歴史と複数性の問題を取り上げたい。

礼は感情を結晶化させ、ある種の範例を作っていく。荀子の礼は、範例によって次の世代をトレーニングしていく。次世代を訓練してその感情を様式化するのを助ける。礼は社会の標準づくりや制度化の問題と関わっている。

孔子から続いた礼において、荀子の最大の特徴は歴史を導入したことにある。それは、過去と現在そして未来という相異なるあり方をしている世界を、どう繋ぐのかを考えることなのだ。

伝統の継承や国民的な統合、「日本人」の例を思い出してほしい。今のこの世界のあり方は、歴史的に構成されたのではないか。また、今のぼくたちのあり方も、歴史的に構成されたのではないのか。過去の感情、現在と未来の感情も由来にして、遡行的にぼくらは社会を再構築している。

さらに荀子は、複数性の問題に敏感だった。荀子は自分たちの礼(感情の範例化)だけが、一つの解ではないという想像力が常に必要だと説いた。荀子は複数の礼の可能性を考えた。このことは、ルールの上書きに耐えられる公共性の構築の可能性に開かれている。

礼は複数あると考えなければ、自分たちの国以外の礼は単に野蛮で、教えなければならないと考えるのが聖戦の論理だ。これは現代の戦争や社会関係の問題で繰り返されていることでもある。礼は感情に根ざしているがゆえに、油断すると聖戦の論理に陥ってしまう。

とは言っても、例外的な状況の個人の感情は複数ある。これが感情の政治に陥らないようにすることはひどく難しいように感じる。

荀子は歴史的に見ても礼は複数あり、同時代的に見ても礼は複数あると示した。さらに礼は歴史的に変容する礼の複数性を説き、この議論は『荀子』の正名の問題、一種の言語的起源論で展開されている。

ここから正名の問題について議論していくが、正名を、公共性(の再構築)と読み換えて、感情を由来にした範例化と、その歴史と複数性の問題を念頭に置いて読み進めてほしい。

正名とは、言葉(名)と、その意味(宜)、そして指示対象(実)の関係は恣意的であり、社会的な約束によって慣習化されて定まるというものである。

名には固有の意味がない。約束して命名し、その約束が定着し慣習となったらそれをその名の意味という。約束と異なった場合は、それは有意味ではない。
名には固有の指示対象がない。約束して実に命名し、その約束が定着し慣習となったらそれを実名という。
名には固有の善さがある。スピーディーでわかりやすく、でたらめでなければそれを善名という。
ーー『荀子』正名より

名という記号には、もともと固有の意味(宜)も、固有の指示対象である実在(実)もないが、約束という社会的な取り決め行為(約)によってそれらと結び合わされ、その結合が慣習として定着する。これが荀子における言語の起源論である。

ただし、言語記号には固有の善さが備わっている。すなわち、スムースで間違いのない伝達を可能にするという善さだ。これが荀子の正名の基本的な枠組みである。

ここでは「記号の恣意性」が前提とされているので、荀子においては、名と実の関係はたえず再構成されうるものであり、歴史的なものであり、かつ複数可能なものである。事実、約束という取り決めは常に変更可能であるし、実際にも、言語体系は時代によって大きく変化しており、外国語という他なる言語体系も存在している。

言い換えれば、別の仕方で「言葉」と「意味」と「指示対象」を結合させることが原理的に可能である以上、特定の正名を最終的な審級に据えることはできない。正名は常にすでに乱れる可能性があるのだ。

つまり名前や名称はどのように決まるか。正しい名前の呼び方はどのように決まるか。あるいは変わるかといったことだ。キエフなのかキーウなのか。正名の問題はまさに正戦の論理を考えるうえでも重要なのだ。社会的な約束の実現は、歴史的な反復のなかで、後から見出されるものにすぎない。

そして正名が完成したと思っても、それが乱れることを原則的に禁止することは難しい。言葉とその意味、そして指示対象の関係が常に可変的である以上、正名が乱れることは、正名そのものの条件に刻み込まれている。

カント主義と功利主義からこぼれ落ちてしまう例外状況の個人(当事者)に対して、社会がルールを更新してきたのは荀子の礼や正名の議論のような基礎づけではないだろうか。自分の感情に閉じるのではない仕方で、他人の感情に接続できる開き方を人間の歴史はしてきたのではないだろうか。

ルールの上書きに耐えられる可能性が荀子の礼にはある。礼に基礎付けられた来るべき公共性の能動的な装置がNPOである。そしてそれを支えるのがNPOへの寄付なのだ。

誠実さ、内面の清潔さを追求し続けても、悪を抑制するのは困難である。〈人為=偽 : フィクション〉と〈かのように〉の次元をうまく活用して行動にまでつなげる回路が必要なのだ。寄付をしたいという気持ちの内面に加えて、寄付をする外面の行為のセットが重要なのだ。ルールも持続するし、例外も組み込まれるダイナミズムが、荀子の礼の議論とNPOとそれへの寄付にある。

礼をベースにした感情がつくる公共性。孟子の惻隠の情は、数( -s や -es )でもないし固有名( the )でもない。固有名( a や an )の無いたまたま出会っただれかひとりを助ける。例外的な状態の個人の発見だ。すでに群れになっている100人を助けるとかではないが、このひとりによってぼくたちはさまざまな感情が湧き起こり、それの結晶化がぼくらの社会の新しい標準としてやってくる。

感情の結晶化による範例化を、感情の政治に取り込まれない仕方で、功利主義的にもならずに、少数派の感情と向かい合い、豊かにできないだろうか。そして倫理観が進化しつつある現代は豊かになるチャンスなのだと思う。この倫理観の進化、つまりカント主義にうんざりしつつも、功利主義が対抗するような二項対立を避ける別の仕方で、かつ少数派の感情を取り残さない公共性として、孟子性善説荀子性悪説が思想的基盤になりえないだろうか。

NPOに寄付をすることは、社会のルールを上書きする可能性を開くことである。ハックされつつある包摂を脱構築する、道徳あるいは功利主義の判断だけではない、人間らしい公共性をつくる判断をNPOは開く。来るべき公共性の再構築となる例外的な状況の個人と偶然に出会うために、能動的な仕掛けとなる装置を持続可能にする土台がNPOへの寄付なのだ。

公共性を再構築する、偶然現れる例外的な状況の個人。この偶然性によって社会のルールや公共性が後から見い出されることは当然ではあるが、本当に不思議なことであり希望でもある。

デリダは主権なき神の問題について the god や gods ではなく、 a god の話を「9・11アメリカ同時多発テロ事件」後に出した晩年の著作でとりあげている。 a god の問題は、アノニマスなのに固有性がある。そしてこれが「来るべき民主主義」に関係していると論じている。

例外的な状況の個人がつくる「来るべき公共性」はここから着想を得た。

例外的な個人は未分化な状態だ。つまりカテゴリー化がされていないのに、アノニマスな固有性がある。未分化の状態とは、平等や共有の概念が生まれる前のことだ。そして未分化の問題は不定冠詞の問題でもある。群れの複数性や定冠詞になっている状態は人工的であって、不定冠詞は人工的になる前の「自然」状態だ。

文化背景やイデオロギーの枠にはまっている価値観は、理念上の上位の権力者がいるため他国に伝播しづらい。未分化で自然な状態の原初的な価値観は、社会のルールとして他国にも伝播しやすい。伝統の継承や国民的な統合といった国内の範囲だけでなく、グローバルな社会の標準づくり、ルールの上書きまで視野に入る議論の可能性が、例外的で未分化な個人にはある。

宗教とNPOの違いをここまで書いてきて、 the god,  gods, a god の話で結ぶのかとつっこまれるかもしれない。だが例外的で未分化の個人は、アノニマスなのに固有性がある状態であり、ある神、あるいは来るべき民主主義や公共性を実現する。そしてマルクスとカントを論じ続ける柄谷行人の交換様式Dの謎にも接続するかもしれない。

宗教では成し得ていない、能動的装置としての来るべき公共性を展開できることが、NPOオルタナティブ性、本当の面白さなのだと予感をもっている。

 

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