小さな flaneur のテキスト

1985年4月4日、東京生まれ。

ポピュリズムの理性、危険なグレート・ハッシュタグ、あるいは啓蒙の失敗

十数万人を動員する祝祭型の市民活動は、グローバル資本主義で成功を手にした「GAFA」をはじめとするプラットフォーム企業の技術と抜群に相性が良く、市民活動にとってその実装が完了したのが平成の30年間であったと前回振り返った。 

そして巨大化する市民活動の動員の技術として、ポピュリズムの現象に注目が集まっている。あるいはもっとシンプルに右派への対抗戦略として、左派ポピュリズムの手法が選ばれはじめている。 

ポピュリズムは右派特有のものではなくなった。ポピュリズムの勢いはなかなか止められない状況にある。病理的で愚劣、正常ではない、などの軽蔑あるいは侮辱の言葉をポピュリズムに投げかけるだけでは止められないだろう。

もしかすると、ポピュリズムには可能性があるのかもしれず、この現象と真剣に向き合うことが必要なのではないか。政治学者 エルネスト・ラクラウの2004年の著作は、ポピュリズムにも理性があると論じ、啓蒙主義的な左派が活用でき、右派的な権力に対抗できる言説戦略であると論じた内容だ。 

もともと彼は、盟友のシャンタル・ムフとの1985年の共著で、新自由主義に対抗するための左派のプロジェクトとして、根源的民主主義(ラディカル・デモクラシー)を構想した。 

根源的民主主義とは何か。ラクラウとムフが論じたテキストを、スロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクが1989年の『イデオロギーの崇高な対象』で要約している。 

ラクラウとムフによるラディカルな(根源的)民主主義の構想をみてみよう。そこには、個々の闘争(平和運動エコロジーフェミニズム、人権運動など)の結合がみられるが、そのどれか一つが、「真理」、最後の「シニフィエ」、他のすべての運動の「真の意味」だというわけではない。しかし、「ラディカルな(根源的)民主主義」というタイトルそのものが示しているように、これらの闘争を結合しうるということ自体が、ある一つの闘争が「結節的な」決定的役割を果たすことを示唆している

つまり根源的民主主義とは、総力戦を実現するために、つながっていないが故につながる集団形成の理論である。イデオロギーも関係なく、マイノリティというだけでつながる運動だ。この集団形成には根拠が無い。根拠がないことで集団がつながっていくことに左派は可能性を見出してきた。

そして、ムフは2018年の著作『左派ポピュリズムのために』で、ラクラウが論じたポピュリズムを要約している。 

社会を二つの陣営に分断する政治的フロンティアを構築するとともに、「権力者」に対抗する「敗者(アンダードッグ)」を動員する言説戦略である

ポピュリズムは特定のイデオロギーではないと、ムフは指摘する。特定の内容をもつ政治的プログラムから生まれるものでも、一箇の政治体制でもないと。それは時と場所に応じて、多様なイデオロギー形態をとることがあるし、様々な制度的枠組みとも両立する政治技法(way of doing politics )であると指摘している。

ポピュリズムは政治技法なのだ。だから右派特有のものではない。それは例えば、反アベでつながっていた、あるいは反トランプだけでつながる左派の運動もポピュリズムの一種だ。この運動は本質的ではないとバカにできなくなってきている。

左派の市民活動の現状を照らし合わせながら、政治理論と精神分析を横断するラクラウの『ポピュリズムの理性』の合理性、理論的根拠を整理してみたいと思う。 

ポピュリズムは人民を構築し、動員する。そうであるらしいが、人民とはなんであろうか。

ポピュリズム( populism )は、平民主義、公民主義、人民主義、大衆主義などと言われる。つまり今の日本語の感覚だと、庶民に近い。あるいは、民俗学者柳田国男がかつて提起した「常民」でもよいかもしれない。人民は、現在でイメージされる市民や労働者よりも広いカテゴリーだ。

これまで政治として扱われてこなかった庶民の個人的要求、あるいはマイノリティ集団の要求が、人民を構築する。ポピュリズムは、個人が感じる課題をテーマにした反体制運動だと言えるかもしれない。21世紀の社会に必要不可欠で、社会で満たされず、欠如した理想を求める運動だ。

さらに言うと、この反体制運動は革命ではない。権力者に制度や仕組みを整えてもらうための運動だ。学校の優等生が校則変更に挑戦する生徒会活動的と言っていいかもしれない。つまり、庶民の要求が体制派のポジションをとることがゴールになる。 

では、個人的な要求がどうしたらポピュリズムになるのか。

ラクラウは、庶民全体の共通項ではなく、個別に違いがある問題意識が、あたかも庶民にとって普遍的なことであるかのようになることがポイントだと示した。共通していないにもかかわらず、代表的あるいは象徴的になる個別の要求がある。反体制運動の全体性を担うそのあり方を「ヘゲモニー」とよぶ。 

ヘゲモニーを通じて、個別に違いのある問題意識が、共通項がなく、つながる根拠もない。にもかかわらず、アイデンティティが挫折した過去の世界のありかたを、21世紀では普遍的なことであると権力側に訴え、社会の欠如や不備を満たしていくことを目指す。 

例えば、一昔前であればマイノリティ差別は当事者の問題であった。現在のマイノリティ差別は社会の問題である。道徳的にまちがっていると、当事者でなくとも声を上げるSNSのキャンペーンが大きく展開しているのが21世紀だ。 

ポピュリズムは、ヘゲモニーを通じて、人民のアイデンティティを構築する。つまり、マイノリティだけが声を上げる個人的な運動ではなく、あたかも庶民全体のアイデンティティ、問題意識として現れる「道徳的な運動」になる。 

ラクラウは、人民の構築には、庶民の情動にアプローチするレトリックが中心的な役割を果たすと示唆する。つまり正義あるいは道徳を喚起し続ける情動装置があると。

情動を喚起する巨大なメディアとして、20世紀はテレビや映画が大きな担い手であった。21世紀においてグローバル化、巨大化に加速し続ける市民活動の情動喚起は、SNSが担っている。あらゆる差別は道徳化し、次々と正義と道徳の新しいキャンペーンが絶え間なく続き、SNSハッシュタグで世界は徹底的に優しくなっていく。

正義と道徳のキャンペーンは断絶することなく、庶民の参加が続くようになった。ラクラウは、ポピュリズムにおいて「等価性の論理」が重要であると指摘する。

等価性とは、排除されていた「差異の論理」あるいはマイノリティを、同質的な政治のアリーナにおくことである。「個人的なことは政治的にならない」に対するアンチテーゼである。もちろんこれまでも全体性を獲得できるような個人的な要求が、政治的になることもあった。ポピュリズムが動かすのは、過去の世界のなかで満たされず、政治的になることのなかった個人的なことである。

ポピュリズムは、政治的でなかったものを名指して、政治的なものとして構築することができる。等価性の論理で、マイノリティでも弱者でも敗者でも横並びになれる。ポピュリズム多元主義ではなく一元化といわれるが、形を変えた多元主義なのである。

ラクラウは、あらゆるアイデンティティは、個別の違いのある問題意識の「差異の論理」と、この「等価性の論理」の緊張のうちで構築されると指摘する。 

しかし、差異性と等価性は両立しないと思わないだろうか。

ラクラウは、差異的要素の全体化の機能を担うために、差異性の特権化が等価的契機であると説明する。

ある一定のアイデンティティが、諸差異の領野全体、同質的な政治のアリーナから取り上げられ、この全体化機能を具現するようになる。この特権化が、差異の論理と等価性の論理を両立させる。

例えば20世紀では取り残されてきた、LGBTパワハラ問題、あるいはBLM( Black Lives Matter )などのあらゆることが、差異の論理、その諸要求にとどまることなく、広く庶民を動員し、抑圧的体制に対抗するために、人民陣営を構築している現実を想像できるだろう。

そしてこの共通分母となった一定のアイデンティティは、積極的な「象徴的表現」を必要とする。SNSハッシュタグがその一例である。個人的な問題が、一気に公共の問題、道徳的な問題、民衆の問題に移行する。積極的な象徴的表現として、ハッシュタグが機能する。

指導者の代表性あるいはアイデンティティだけでは差異性を乗り越えられず、集団にならない。象徴的表現をもつ等価性によって、包括的なアイデンティティが構築され、特権化した統一性を獲得した集団が生まれるのだ。

では、差異性の特権化、等価的契機、全体化機能の具現化はどうしたら発生するのか。

ポピュリズムが象徴的表現をもつ等価性についてのラクラウの議論は続き、情動装置としての「空虚なシニフィアン」が重要なキーワードとして挙がる。

空虚なシニフィアンとは、差異性と等価性の緊張関係を両立させる言葉やイメージである。これは共通項を見つけ出すような、抽象的な言葉やイメージではない。

等価性のなかで差異はそのままあり、共通項は何もなくていい。共有するのは、満たされずにいる事実だけであり、社会の欠如や不備である。空虚なシニフィアンが共有するのは、否定性である。

あとで触れるが、ポピュリズムとはつまり否定神学的である。ポピュリズムの最終ステージでは、要求内容と要求相手の存在は限りなくゼロに近づいていき具体性は見えなくなっていく。

ラクラウが例として挙げるように、ロシア革命において要求されていた言葉とイメージは「パン・平和・土地」であった。これら3つの要求とは関係のない苦痛が社会にはあった。この言葉とイメージは、社会のあらゆる要求の共通分母となる抽象概念ではない。けれども「パン・平和・土地」は、差異化されず、等価的な絆をもち、現実の共同体の欠如を満たすような、社会の十全性の理想を名指す「空虚なシニフィアン」となった。

ポピュリズムへの反証として、実態が不精確で曖昧であるから話にならない、イデオロギーや政治的に発育不全だと非難がある。この点について、そもそも見通しが浅いのだとラクラウは指摘する。

自分たちの要求先がわかりやすい局所戦ではなく、より広範な人民アイデンティティで、より包括的なグローバルな敵を構成しようとすると、両勢力についてアイデンティティが不確かになり、否定神学的にゼロに近づいていく。つまり否定神学的になる政治運動において、空虚さは必然的に現れるのだ。

この不精確で曖昧な象徴シンボル「空虚なシニフィアン」が、人民の陣営に統一性や整合性を与える。空虚なシニフィアンが担う言葉やイメージは、敵対的境界をつくる。ポピュリズムには、抑圧的体制への対抗、権力への反体制運動という、排除の境界が必要だ。社会が二つの陣営に分割され、この共同体の成員の全体以下が人民になる。この人民が、唯一の正当な全体性として理解されようと願うのがポピュリズムである。

また別の反証に、ポピュリズムは、指導者の中心的役割として「暗示」や「操作」が非難される。この点についてもラクラウは、空虚な名指しが、人民を構築しているのだと答える。

指導者の機能は、等価性、等価的な絆である。名指しが、等価性を夢のように圧縮する装置になる。圧縮された差異性のある集団は、ひとつの単数性(シンギュラリティ)となる。この超越的な単数性の極端な形式が個体性、つまり指導者である。等価性が単数性になり、単数性が集団の統一性を与え、指導者の名前は等価性と同一視され、空虚なシニフィアンになる。神格化やカリスマと言われる現象をイメージしてもらうといい。

ラクラウが挙げる例は、国民の象徴としてのネルソン・マンデラである。彼の個人性は、彼の運動が大いに多元主義的であることと両立した。ある個人性を軸とする集団の象徴的な統一化が「人民」の形成には内在するのであると。

空虚な名指しが、人民を構築する。この構築には庶民の情動にアプローチするレトリックが中心的な役割を果たすとラクラウは示唆し続けている。つまり名指された対象、空虚なシニフィアンが情動装置なのだと。

ラクラウは、空虚なシニフィアンが情動を集め、それがポピュリズムだと展開する。そして空虚なシニフィアンとは名指された対象であり、この名指しが、情動を集める装置になるのだと。

彼はポピュリズムが成立するのは、これまで述べてきた「政治的論理」だけではないと語る。ポピュリズムの「精神分析」の側面、バートランド・ラッセル、ソール・クリプキスラヴォイ・ジジェクの「固有名論」を展開し、名指しが情動を集める装置だと指摘する。それぞれの固有名論をたどっていく。

ラッセルは、固有名とは確定記述に還元できるとした。例えば「夏目漱石」なら、小説家である、『吾輩は猫である』の作者だ、男性だ、1867年2月9日生まれだ、などの確定された記述の束による、言語で定義できるのが固有名であるとした。

これに対してクリプキは、固有名の言語外効果は命名起源への遡行で保証されるとした。例えば「あの人が夏目漱石だ」という指示行為は、確定記述の束という特殊性や差異性を越える、単独性の名指しであると。例えば夏目漱石は、実は女性だったという新事実が判明したとする。確定記述と照らし合わせると論理矛盾が起きている。けれどもぼくらは夏目漱石に関する経験的な知を随時修正することができる。つまり固有名は、確定記述の束に還元されないことが判明する。この名指しの痕跡が固定指示子(シニフィアン)となり、夏目漱石の固有名が共同体に伝わっていくと。身近な出来事だと、国語辞典の改訂版が出版され続けることをイメージできるだろう。

ジジェクはここからさらに、固有名の言語外効果は主体の不完全性の反映であるとした。例えば夏目漱石が、もし女性だったということを想像する。論理的には無意味な記述かもしれない。けれども夏目漱石という固有名が無意味になることはない。私たちが知っていた夏目漱石が、そのような想像(仮想)から事後的に女性になる。固有名を伝えていくのは、確定記述の束ではなく、遡行的な名指しである。

クリプキジジェクの論にあるように、固有名は訂正可能で遡行的である。固有名は言語内で定義が発生する強制的な性質をもちつつ、言語外で訂正可能で偶然性を持ちながら伝わっていくものなのだ。

つまり名指しは、社会空間のなかのコミュニケーションの問題であり、ポピュリズムの名指しは、固有名(シニフィアン)が生み出す集団論になる。これはウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」に近い、共同体による言葉と行動の接合だ。

ポピュリズムで議論される名指しは、ヘゲモニーを通じた名指しである。言い換えれば、ラカンの「対象a」の論理であり、名指しを通じてある対象が神話的十全性(理想)を具体化し、情動(享楽)を集める装置(穴)になる。ラカン対象aの穴から、シニフィアン全体が事後的に突如浮き上がってくる。名指しは確定記述に束のようなアイデンティティではなく、アイデンティティを浮き上がらせる役割なのだ。

ジジェクの固有名論のように、「空虚なシニフィアン」によって、共通項がないにもかかわらず、ポピュリズムは遡及的につながりが産まれたかのように感じさせる。空虚なシニフィアンである名指しは、個別に違いがあるの問題意識が、偶発的かつ事後的に、あたかも庶民にとって普遍的なことであるかのような欲望の結節点になる。

つまり、自らに先行する何らかの概念的統一性を表現するのではない。ポピュリズムの集合的意思の統一性は、それを名指すことの遡及的効果である。だから等価性と差異の論理が両立する。

なぜマルクスの労働者が「人民」であったのか。21世紀の労働者は人民にならないのか。さらに言えば21世紀はBLMが「人民」になりえるのか。

空虚なシニフィアンが情動装置である。 名指された対象が情動装置である。名指された固有名は遡及的に記述される。SNSを中心にした21世紀のコミュニケーションは事後的な記述を加速させている。ポピュリズムが、フェイクニュース、ポストゥルースの問題と同一視されがちなはずである。

訂正可能で偶然性を持ちながら、遡及的に記述され続けて伝わっていくポピュリズムの最終形態はどうなるのだろうか。

空虚なシニフィアンは、いわば空虚な十全性なのだ。情動を集める理想だと言い換えられるかもしれない。理想を表象する名指しが、空虚なシニフィアンである。

この理想の表象の具体例として、ラクラウはポール・ド・マンパスカル分析で補足する。指し示すことができる空虚は、いわば零(ゼロ)である。零の数は不在だが、この不在に名を与えることで、零がなんらかの一に変換されるのだと。つまり、理想が名指された空虚なシニフィアン否定神学的なゼロなのである。これまで満たされてこなかった理想が、名指された単数性の空虚(シンギュラリティのゼロ)に情動が集まるのだ。

特権化された空虚なシニフィアンの存在は、敵対的境界、敵対し合う陣営全体の意味作用を圧縮する。権力側は、体制、寡頭支配、支配集団。これ対して迫害される敗残者の側では、人々、国民、声なき多数者(サイレント・マジョリティ)等々。つまり権力がどんどん記号的になり、否定神学的になる。例えば、反米、反中、反トランプ、反アベのように。

ポピュリズムとは空虚なのだ。空虚であるがゆえに、人民を構築できる。しかも訂正可能で遡行的に情動を動員し、巨大化し続けることができる。

けれどもこれは反体制運動なのだ。

一部の「敗残者(アンダードッグ)」は、「権力者」に認められて社会の中で満たされるようになる。一方で残った「敗残者(アンダードッグ)」は満たされないままになる。そうなると敵対的境界は、曖昧になっていく。ポピュリズムの分割線が不鮮明になるのが、第2ステージである。

 第2ステージでは、明確な民主的要求を扱っていたときには出会わなかったことが起こる。

人民の構築には、等価的な絆の樹立が必要だ。つまり、応じてもらえない社会的要求が非常に広範になっている。解体し始めるのは、この民主的な要求の象徴的枠組みである。そうなると新たな象徴的枠組みを構築しなければならなくなる。

そして、敵のアイデンティティも政治的な構築の過程に一段と依存していく。保健制度の責任者、地方自治体の首長、地元の教育委員会、大学当局と戦っている時ならば、だれが敵なのか確信を持てる。

しかしポピュリズムは、これら部分的闘争において全ての等価性がかかわる。その場合、同定されるべき包括的な敵は遥かに明瞭でなくなる。その結果、内省的な政治的境界はますます不確定になる。

ポピュリズムの第2ステージについて、ラクラウは近年のフランスの極右政党 FN : 国民戦線 (現在の RN : 国民連合)への投票行動を例に挙げる。抗議の投票は、伝統的にフランスでは左翼寄りに行われ、左翼の人民を構築できていた。ところが共産主義が終わり、中道、エスタブリッシュメントが形成され、左と右の分割線が不鮮明になった。左翼の人民というシニフィアンが放棄された。けれども急進派の抗議の投票への要求はあるため、この要求の受け皿として、右のシニフィアンに占拠されてしまう。極右政党支持への投票行動は、急進派の抗議への要求が一部で移動しはじめてしまった事例だ。

つまり、欠如ある社会の十全性を満たすのは、これまで歴史があった存在論的な機能としての左翼やリベラルである必要はなくなってしまった。庶民の抗議の要求を充足してくれるなら右翼でも、極右政党でも何であっても正当なのだ。

だからこそ、左翼ポピュリズムと右翼ポピュリズムは、人民の要求を充足する存在としては、正反対の政治的符号であっても多くの方向に横断され、ポピュリズムの分割線は不鮮明になる。

敵対的境界が不鮮明になった。そして、支配側に吸収されていくのが最後のステージだ。

個々の民主的要求を犠牲にすることで、あるいは妥協に供したりすることで、権力側が幾つかの個々の社会的要求に応じるようになる。そうなると個々の理想の実現、共同体の十全性が達成され、他の諸要求との等価的な連環が解体される。つまり、人民の諸要求が、もともとの複数の民主的要求に分解される。

等価的断絶に対する差異的論理の優位である。政治的なもの(国家権力)が全体化する役割を果たさなくなる。敵だけでなく人民という勢力も、同様に役割を果たせなくなる。

ポピュリズムは政治的境界の運命と厳密に連動する。この境界が崩壊すれば、歴史のアクターとしての「人民」は解体される。そして、人民は解体され、敵対的境界が解体されるのだ。

ラクラウの『ポピュリズムの理性』のあらすじは以上だ。市民活動の動員は、ポピュリズムを採用することでとても合理的に達成できるのではないかと思う。

机上の空論ではなく、現実においても、正義を叫ぶハッシュタグは毎日入れ替わっており、マスメディア砲と連携した人民の声が権力に届き、日常のルールを変えることができている。無限にマイノリティ同士で連帯できる世界となった。

動員を達成する装置はハッシュタグだけはない。エビデンスとファクト、それに原色のテロップが付いた動画をSNSに流すのだ。洗練され図象化した美しいグラフの賞賛が繰り返されることで、人民の情動は喚起され続ける。  

緊急事態が日常になり、時間がなくなったぼくらにとって、ポピュリズムはとてもコスパの良い集団論の技術であろう。

2020年4月。誰もいないオフィス。ひとの存在が隣の車両にしか感じられない電車で通勤してきた。惑星全体の人口がわずか二万人で、二億台のロボットが生活を支えている小説の世界を思い出しながら、一人きりのオフィスで、ビデオチャットミーティングが始まる時間を待っていた。

SF小説家の飛浩隆は、 2020年3月2日の小中高校の臨時休校要請、4月7日の緊急事態宣言発令直後の世界を、「人と人とを切り離さないと崩壊する社会」と表現した。

明日突然死ぬかもしれない。自分が原因で家族や大切な人が死ぬかもしれない。あらゆる行動を「いのちを守る」に結びつけた。そう思いはじめたぼくらには時間が無くなった。これまで信じていた社会もなくなったかもしれない。

緊急事態下で思うのは、左派の活動やリベラルの発言は、自分の前衛的な価値観を人民に浸透できるかという社会実験だったのかもしれないということだ。社会情勢が疫病などで不安定になったという理由で一部のリベラルの価値観は簡単に止まることが明らかになった。仮に社会実験であったとしても、持続可能性を念頭に置いた反体制運動にしてほしいと願う。ポピュリズムの手法を選び、一時のキャンペーンで終わらせることは無責任である。

ぼくらには時間がなくなってしまった。啓蒙の時間も無くなった。だからと言って左派がポピュリズムに走ってしまうのは、手段としても、行き着く先としても、啓蒙の失敗ではないだろうか。左派ポピュリズムが、役割を放棄した瞬間に、抗議したい人民が右派に流れる可能性が大きいことは覚えてほしい。

啓蒙とは何だったのであろうか。市民活動は動員が目的だったのだろうか。

つまり、左派の活動は動員が目的ではなく、近代から続く啓蒙主義による内面化をめざしているのだと声高に言わないと、二枚舌をポピュリズムに指摘されてぐうの音も出なくなってしまう。歴史なんてなくていい、過去の責任を反省する必要もないと指摘されている。ポピュリズムは社会システムをハックし、いまバズッた者が勝ちだ。社会を変える技術としてのコスパが良すぎて反論できなくなり、啓蒙主義のような時間と労力をかける活動は選べなくなってしまう。

何度も繰り返すが、左派ポピュリズムが、役割を放棄した瞬間に、抗議したかった人民が右派に流れる可能性が大きいことは注意しなければならない。  前提として、ポピュリズムは解体されやすい人民であるとラクラウは言うのだ。

左派ポピュリズムは巨大な動員のために、左派が嫌悪する虎ノ門界隈の小説家のように振る舞っていないだろうか。文芸評論家の加藤典洋は2014年の論考で、特攻隊をテーマに反戦的な感動的な小説を書きながらも、愚劣ともいえる右翼思想の持ち主が両立していると、その小説家を論じた。読者獲得、映画の観客動員、そして右派活動の動員のために、この小説家のイデオロギーは着脱可能なのだ。

何より右派も自分たちのことをマイノリティ、反体制派だと思っている。社会学者の伊藤昌亮による2019年の著作を参照すると、右派はいつもで反権力であり、マイノリティであると自分たちを認識していることがわかる。

例えば、日本でも1990年代半ば、オウムと震災があったころに、漫画家の小林よしのりは「薬害エイズ問題」に関する議論を繰り広げ、リベラル市民主義ブームの旗振り役であった。けれども、小林のなかで市民運動の論理に、ニセ市民があると違和感が生まれた。庶民感覚からかけ離れた市民主義への自己批判、本物の運動を求めるなかで、「反リベラル市民」批判にターゲットが移っていく。そして、ジャーナリストの櫻井よしこも著作『エイズ犯罪 血友病患者の悲劇』で、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。

他にも朝日新聞と対立する右派の活動もそうだ。テレビや新聞というマスメディア権力批判の活動は反体制なのだ。

そして右派ポピュリズムは左派の手法、社会システムをハックする思考を積極的に取り入れて、いまでは左派よりも洗練が進んでいる。SNS、動画サイトでその存在感は増し続けている。

つまり左派も右派もない、ただただ時間と労力のコスパが良い巨大な動員で、数の論理のポピュリズム合戦がはじまろうとしている。価値観など二の次の博打打ちのようなヘゲモニー奪取の争いを極めつつある。  

ぼくらには時間がなくなった。この前提において、ポピュリズムコスパが良く、魅力的な集団論の技術だ。

誰もが政治的になれる時代になった。それは啓蒙主義の一部達成だ。けれども依然として個人は大きな政治を避ける。代わりに個人的な問題をテーマに、SNSやオンライン署名の世界で固有名を複製、遡行的に記述する小さな政治活動に勤しんでいる。そして合理的な左派ポピュリズム、あるいは社会システムをハックする思考は、どの小さな政治イシューがヘゲモニーを握るかの狙いを見定めている。小さな政治活動を、大きな政治で塗りつぶす。アテンションエコノミーを集める振る舞いが目立つ市民活動、芸術祭がたびたび問題となっている。

市民活動の歴史などはいらないと暗に指摘されている。過去の責任を省みるという価値観、あるいはもっとシンプルに古くからある考えを大切にする価値観などいらないのだ。いまバズった者が勝ちだ。ポピュリズムは本当にコスパが良い。

近代の啓蒙主義は、時間が無限にあった気がして、時間をかけて啓蒙ができた。左派ポピュリズムはどうだろうか。現代の時間と労力をかけない啓蒙主義に成り代わるのだろうか。

コスパのよい啓蒙活動を志向する左派とリベラルは、IT起業家の社会をハックする思考の価値観にとても近い。

例えば社会のコミュニケーションにおいて、NetflixAmazonのレコメンドシステムは大きな影響力をふるっている。これらは時間が無くなったぼくらのために、時間と労力をかけずに映画や動画番組のコンテンツを提示してくれている。蓄積された個人のデータが重要で、いまここに求められている、個別最適化した提案ができるというのだ。近代が培ってきた歴史など不要になりつつあるかのように思える。

ぼくらは価値観の近い情報にアクセスできるようになり、それなりにソースを確認して、意見を自分から発信をして行動できるようになった。クリックする機械になって、オートメーションに共感の群れでつながることができる。だからトレンドとレコメンドをハックして市民活動を巨大化させる、ポピュリズムはやはり合理的なのかもしれない。なぜなら細かくなりすぎた個々のぼくらの違いを理解するために、時間など割いていられないのだから。

けれども情動で動員された人民は、絞られた選択肢に脊髄反射する集団である。スポーツのサッカーのゴール前でパスをもらい、すぐにシュートするようなものだ。シュートは決まるときもあれば、外れるときもある。ポピュリズムは、いまシュートを決めたものが勝つ。いまの時流のチャンスを掴んだもの、バズったものが勝ちのゲームだ。

イデオロギーと常套句、エビデンスとファクト、美しいグラフで表現される計量化された社会は、時間と労力をかけずに判断をしろとぼくらに催促をする。パターン化された表象で情動が調達される。

つまり、ポピュリズムとは意思決定支援なのだ。合理的に人民を動員する手法である。精神分析が応用されている古典的マーケティング技術と、FacebookTwitter をはじめとする統治の新しい技術で、公共の問題がコントロールされている。例えば「いのちを守る」という公共の問題は、あらゆるメディアと技術にコントロールされ、統治されるがままの公共(人民)になった。

時間と労力をかけない啓蒙活動で情動は調達できても、 ぼくらの内面は変わらない。 あたりまえすぎる「いのちを守る」に情動の調達ばかりに目がいってしまった結果、渦中になったら人々は喜んで畜群に成り下がってしまった。それが顕在化したのが、2020年の4月以降の社会だ。歴史も過去を捨ててしまい、意思決定しかしない。 人間の断片化だ。断片化してしまったら、ぼくらは人間をやめた畜群に成り下がってしまう。 

社会や世界を変えたいという思考が大切にしていたことは、賛同者が急速に集まるだけの動員数だけではなかったのはないかと、市民活動は気づきかけていると思う。

啓蒙とはハッシュタグの文字情報を人民に与えることではない。人民を動員するために、意思決定支援をするSNSのトレンドやレコメンドをハックすることは、啓蒙ではない。

左派が抱く欲望を人民に再生産するプロセスが生まれるような持続的な啓蒙活動、あるいは時間の厚みを取り戻せないかと考えている。

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