小さな flaneur のテキスト

1985年4月4日、東京生まれ。

書評 : 古田徹也『言葉の魂の哲学』

古田徹也『言葉の魂の哲学』2018年4月10日刊行、講談社選書メチエ、256ページ

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ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン研究者として専門書から入門書まで執筆する著者による、言葉を選び取る責任の倫理について論じられた内容。2019年サントリー学芸賞受賞作品。

言葉の意味がわかるということはどういうことか。初学者にもわかりやすく解説されている。言葉の使用による共同体形成の観点から、ウィトゲンシュタイン言語ゲームおよび生活形式について興味深く読めて理解をすすめることができた。

著者は言葉の意味について、ウィトゲンシュタインの次の一説を引用する。

「文の意味」は、「芸術鑑賞」の営みに極めて類似している。 

芸術鑑賞の営みの特徴として、人々は絵画、彫刻、音楽、等々から多様な解釈を喚起している。また、評論家や批評家のコメントをふまえて鑑賞することで、対象の芸術から意味を受け取る。

同じことは言葉にも当てはまる。日本語やドイツ語等々の自然言語は、様々な連想を呼び起こす豊かさを湛えている。本書は言葉の豊潤さを構成する言葉を<魂ある言語>とし、コミュニケーションの効率化で構成された言語、例えば人工言語エスペラントを<魂なき言語>と考える。

さらに九鬼周造の『「いき」の構造』の序説から、魂のある言語とは、言葉の多面性・奥行きある、生ける文化遺産であるとし、次の一節を引用する。

言語は、一民族の過去および現在の存在様態の自己表明、歴史を有する特殊の文化の自己開示にほかならない

つまり魂ある言語とは、個々の民族がその長い歴史のなかで生み、育て、営んできた、生活文化を顕著に表すものなのだと。ウィトゲンシュタイン流に言えば、「生活のかたち( Lebensform : 生活形式)」である。

多様な言語から地域における方言まで、積み上げてきた生活文化の歴史の「言語的実践( Sprachspiel : 言語ゲーム)」 が共同体を構成する。言語を使用し続ける人がいることが1つの文化のまとまりをつくる。

本書は、言葉には魂という本質があるといった解釈とは、異なる議論であると注意を促す。あるいは人工言語のように言葉の意味は一つであるといった解釈とは違うと。

むしろ「家族的類似性 ( family resemblance )」こそが、魂=本質の罠にはまらずに議論を進めることができるのだと。家族になったことでなんとなく夫婦の顔が、ペットの顔が似てきたかのような、本質にもとづかない類似性こそが、言葉の魂を構成するのだと。

地域、コミュニティ、サークル、家族のような緩やかな共同体の家族的類似性。それと結びついた個々の言葉と、それぞれの使われ方への連想が、言葉の魂の多面的立体を構成し、ぼくらは言葉の多義的な意味を理解することができる。

本書の後半は倫理的な実践について、言葉の多義性に対立する常套句を題材に、オーストリアの作家 カール・クラウスの言語論に着目する。クラウスはナチス・ドイツプロパガンダに警鐘を鳴らした闘争のジャーナリストだ。なお、ウィトゲンシュタインアドルフ・ヒトラーと中学校(高等実科学校)が同じであったことは有名であり、クラウスとウィトゲンシュタインの相互の影響、同時代性のある共通の議論が浮かび上がってくる。

クラウスは、多義的なものとして言葉を理解し使いこなせなくなれば、表現の繊細さや豊かさを失うだけでなく、重要な倫理も失うことを問題視した。この倫理とは、類似した言葉のなかからひとつをしっくりくる言葉として選び取るという実践に支えられている。

ぼくらは常に言葉を選び取る実践を繰り返しているが、ともすれば単純にその努力を放棄して、言葉を選び取らずに済ませている。しっくりこないまま違和感があったとしても、妥協してごまかした言葉を使う。あるいは違和感すら抱くことなく、流行する便利な言い回し、キャッチフレーズ、常套句を多用して済ませている。

ジャーナリストとして、クラウスが深く切り込んでいったのは、マス・メディアの言説やナチス・ドイツプロパガンダに代表される常套句の氾濫であった。決まり文句の洪水で、人々の思考を単一な方向に誘導していくような戦略を激しく攻撃した。クラウスの論集のひとつに、ショーペンハウアーが記した次の一節を掲げている。

……およそ活字をよむ人間の九割以上は新聞のほかに何も読まない連中であり、その結果、彼らの正書法、文法、文体が新聞に従って形成されるのはほとんど避けられない。 

言葉を選び取る実践は、答えが定まっていない。それぞれの個人の価値、あるいは所属する共同体にもとづいて考え抜く問題である。

本書が取り上げる内容は20世紀前半の題材だが、言葉を選び取る責任の倫理の問題は、現在においても十分にアクチュアルな問題である。

著者は、言葉を選び取る責任の放棄について、SNSの恩恵を受ける現代は遥かに簡単に済ませることができるようになったと見出す。

実際、いま急速に拡大しているのは、他者の言葉に対する何の留保もない相乗りと反復に過ぎない。いいね数とリツイート数の重量を増した言葉が、他の言葉を押しのける力学で、称賛も非難も、議論や煽り合いも、結局のところ常套句あるいはトレンド入りする流行語とハッシュタグの使用へと硬直化していると。その反応や応酬の勢いと熱量が、物事の真偽や価値であるかのような代用品となってしまっているのではないかと。その声を代表する誰かへの迷いなき同調と一体化の空間の倫理的責任の無さ。

クラウスの問題提起はまさにいま、突き付けられている現在の問題である。クラウスは、庶民の言語使用が常套句に塗り潰され、平板化し、言葉が死んでいくその過程に、言葉を選び取る責任がもっと軽んじられている状況を見て取っていたのだ。

なお、言葉の多義性について社会学の観点から、矢野利裕「言葉のままならなさに向き合う――一義性の時代の文学にむけて」(『ゲンロンβ61』『ゲンロンβ62』所収)をあわせて読まれることをお薦めする。学校現場の国語教育における自閉症スペクトラム傾向ある生徒への「合理的配慮」や、文脈を重視しない一義的な読解が多様な他者へと開かれる〈一義性の時代〉の論考は、現在進行形の重要な問題への検討範囲と思考をさらに広げてくれる。

社会的な活動において、権力構造への対抗、あるいは活動家が道徳的に遅れていると考える人を啓蒙するために、言葉の多面性を徹底的に排除して、言葉を繰り返す戦略を採用してしまいそうになることがある。

たとえば、新自由主義SDGs、シンギュラリティ、気候変動、加速主義、人新世、ソーシャルグッドというような「大きな物語」は、ともすればキャッチフレーズのように使用されてしまう。

大きな物語がふたたびもてはやされている。若くて柔軟で倫理的な真面目な人が呪文のように唱えている。たしかに社会的な活動の入口として、認知のきっかけとしては有効であると思う。

あるいは、マジョリティの特権、トーンポリシング、というようなもの。個人的な政治問題を道徳化しようとするような言葉。

大きな物語復権していると同時に、個人的な政治問題を当事者以外が道徳化しようとし、常套句の氾濫、決まり文句の洪水に人々の思考を流す。けれどもいわゆる論破、決まり文句を繰り返す議論では、相手を黙らすよりさきに進まなくなってはいないだろうか。

言葉に魂が宿る共同体の歴史から、言葉の豊潤な可能性を探る言語批判としての、「言葉を選び取る責任の倫理」。言葉の使用に悩み、立ち止まって考えたいときに、本書は極めて倫理的な実践として多くのヒントが語られた一冊である。