小さな flaneur のテキスト

1985年4月4日、東京生まれ。

書評 : ユク・ホイ『再帰性と偶然性』

ユク・ホイ『再帰性と偶然性』2022年2月12日刊行、青土社、435ページ

https://www.amazon.co.jp/dp/4791774469

香港、パリ、ロンドンの現代思想界で急速に注目を集める若き俊英による、近代のテクノロジーを根本的に問い直す、2019年の著作『Recursivity and Contingency』の待望の翻訳書。

著者のユク・ホイ(許煜)は、テクノロジーを根拠づけ直すことを提案する。それはいわゆるAIやロボットに何らかの倫理観を追加することではない。そのような価値観を追加するだけではテクノロジーの傾向を変えることはできないと考える。

根本的に問うことは、未来のテクノロジーの開発に複数の枠組みを提供することで、黙示録的な技術特異点や技術単一性(シンギュラリティ)ではなく、技術多様性にもとづいたあらたな地政学を出現させることだと記されている。

技術単一性、シンギュラリティとは、「サイバネティクス」が思想的背景にあり、テクノロジーと西欧思想にもとづく世界的同期化である。

技術多様性とは、テクノロジーの発展を再考するために、局所性に回帰することであり、ユクはこれを「宇宙技芸」的な思考と呼ぶ。

本書は、サイバネティクスが席巻する世界(史)的な状況を人文知でアプローチし、「再帰性と偶然性」をキーワードに、来るべき技術多様性の再概念化(宇宙技芸)を試みる。

ユクは、フランスの哲学者 ジャン=フランソワ・リオタールの『ポスト・モダンの条件』に何度も言及し、(グローバルな時代の)ベスト・パフォーマンスのモデルではまったくない正統化の別のモデル、パラロジーとして理解される差異のモデルが必要であるという。

グローバル化した近代の共同体論、あるいはコスト・パフォーマンスに最適化され自己調整のシステムを求める社会論、このような時代に抵抗するオルタナティブな活動や運動を考えるうえで、本書はぼくの問題意識のテーマに多くの着想をもたらしてくれた。すでにユクの次の論考を一刻も早く読みたいと思える素晴らしい作品だった。

本題に入る前に、本書とはユクの別の論考「芸術と宇宙技芸 ポストヨーロッパ哲学のために」を参照しながら、「サイバネティクス」のキーワードを少し整理したい。サイバネティクスを人文知から解き明かすユクの議論はとても刺激的だ。

サイバネティクス( cybernetics )とは、アメリカの数学者 ノーバート・ウィーナーの造語だ。彼は、ギリシア語のキベルネテス、動詞ならキベルナオーからこの用語を生みだした。これは英語の steering(操縦すること)を意味する。語源となった操縦すること、あるいは操作可能性については重要なのでのちほどすぐに触れる。

ウィーナーは「フィードバック・ループ」、「自己制御するシステム」、「自律的に調整が効く機械」の3つのアイディアを工学的に組み合わせて、サイバネティクスを提唱した。

ここから、機械工学、通信工学、神経生理工学、ロボット工学、情報工学、認知工学、編集工学、地球工学などの工学の分野が生まれた。さらにサイバースペース、サイボーグ、サイバーパンク、サイバーセキュリティ、サイバーテロなどのサイバー語が生まれて社会に浸透している。

ユクの議論はここからはじまる。例えば生態系の設計、監視、 建設に関わる「生態工学」。この工学によって、かつて自然的であったものが、それを観察するためのわれわれの視点がテクノロジーにより変えられてしまい、まるで自然が異なる意味をもつようになった。

20世紀のカナダの批評家 マーシャル・マクルハーンは、人工衛星スプートニクの視点がこの惑星にとっての新たな環境を創造したと考えた。自然界が人造の容器の中に完全に閉じ込められたのは初めてのことであり、地球がこの新たな人工物のうちに入った瞬間、自然が終焉し生態学が誕生した。この惑星が一つの芸術作品という身分に昇格するやいなや、「生態学的」に思考するよりほかなくなったのだ。いわゆる「エコロジー」のはじまりだ。

これは自然のすべてが人工的になってしまったということではない。スプートニクの視点、あるいは生態学の視点は、もはや人間存在たちを他の植物や動物たちと同じようにその部分であるところの一つの自然ではなくした。テクノロジー人間性を新たな水準へと上昇させたとするのがマクルハーンの見解だ。

ぼくたちはテクノロジーを第一の自然に適用することで、地球を包む第二の自然を開発した。第二の自然とは文化技術である。例えば畜産農業のような環境管理が技術化された自然である。これは第一の自然ではない自然である。

より正確には、それは人口地球、または建築家でデザイナーのバックミンスター・フラーのいう宇宙船地球号になったのだ。自然は工学の一対象となった。あたかも大地が工学に服従したかのように。

ユクは、生態学の問いが工学的、テクノロジー的なものであるとしたら、テクノロジーの問いと向き合うことは避けられないという。サイバネティクスの時代は、人工地球の工学が完成しており、さらにそれは産業革命の時代におけるジェームズ・ワットの蒸気機関の改良ならびに、地球規模の広範な応用と関連するのだ。

サイバネティクスについてユクは、ドイツの哲学者 マルティン・ハイデガーの「哲学の終焉」の議論を参照する。

ユクは、地球というひとつの天体が、デジタル技術、つまり近代的計算機械によって空間的に同期化されている状態を、グローバル化した時代だと位置付ける。

この時代はハイデガーによれば、ヨーロッパ哲学の終わりないし完成によって指し示される。彼は1964年に次のように書いている。「哲学の終わりとは、ある科学的 - テクノロジー的な世界を操作可能な整備、およびこのような世界にふさわしい社会秩序の勝利に他ならないことが明らかとなる」

哲学の終わりが意味するもの、それは西欧的思考にもとづく世界文明化の始まりなのである。

科学的 - 技術的な世界とは近代のテクノロジーのことであり、それが西洋を超えて各文明へと拡大することは、西洋的な思考の形式が広がってゆくことと同義だ。つまり、テクノロジーによって規定された均一的な世界文明が誕生するとき、世界は事実上、西洋の哲学によって支配されることになる。ハイデガーはこれを「哲学の終焉」と呼んだ。彼が言う終焉とは、死滅ではなく完成なのだ。つまり、グローバル化したこの時代は、総じて西洋形而上学の実現である。

そしてハイデガーがいう、「操作可能な整備」の勝利とは何か。操作可能にあたるドイツ語の「steuern」は、「操作する manipulate」 であるが、「steuern」には、「操縦する steer」という意味がある。

サイバネティクスは、ギリシア語のキベルネテス、英語の steering(操縦すること)の造語だったことを思い出してほしい。つまりハイデガーの「操作可能な整備」の勝利が指示しているのは、サイバネティクスのことなのだ。

だからハイデガーは哲学の後にくるものは何かと尋ねられて一言、「サイバネティクス」と答えている。彼が言う終焉とは、死滅ではなく完成である。ぼくたちが生きているテクノロジーがグローバルに普及した時代は、西洋思想にもとづく同期化なのだ。つまりサイバネティクスとは、グローバルな時間軸の完成、あるいはグローバルな倫理規範による操縦だと換言できるかもしれない。

本書は、このようなサイバネティクスの議論を深めていくにあたって案内役になる概念として、再帰性と偶然性を導入する。

ユクは再帰性について、19世紀のドイツの哲学者 フリードリヒ・ヘーゲル有機体論の三段論法を参照し、植物の発生における、抽象から始まり他者との遭遇を経て、具体へと至る一つの運動に注目する。

ヘーゲルの植物本性における三段論法とは、自己同一、他者認識、統一を念頭に置いた、形成過程、同化過程、類的過程である。ユクは、サイバネティクス再帰性にはこのような前史があると考える。

これは一見すると目的論のようだ。終焉がすでに始原に含まれている、植物の生命が遺伝子情報をひたすら展開するばかりで、自己と類を保存するだけではないのかと疑問に思う。それはただただ「より大きく、より多く、より早く」という効率性や合理性のような、疑似的な価値に駆り立てられることを本質とする近代テクノロジー的な思考に転落し続けているように。

この思考の立て直しに、ユクは偶然性を導入する。

初期近代を支配していた機械的なモデルは線形の世界観であるとし、サイバネティクス再帰的なモデルは線形の命題ではない。精確ではないが、例えば有機的な螺旋状の図をイメージしてもらうといいかもしれない。

機械的なモデルにおける偶然性とは、大規模産業機械における破綻であり、大惨事になりかねない。一方で再帰的なモデルにおいては、偶然性は必然性として予想されていると。

未知なものである偶然性とは、有機的な出来事が起こることである。偶然性なしでは外部も外在的合目的性もない。

ここでの合目的性とは、機械論が保証するような線形の因果命題に干渉するものではなく、みずからを規定するべく再帰的にみずからへと回帰することにより目的に到達しようとする試みのことをいう。それが規定する形式は偶然性との格闘により獲得されるものであり、偶然性を消去するのではなく、むしろ必然性として統合するのである。

再帰的なモデルにおいては、偶然性が合理化のプロセスに組み込まれているということだ。

偶然性こそが思考を立て直す力であるならば、何らかの絶対的な偶然性をもつことは可能なのであろうかとユクは問う。

フランスの哲学者 カンタン・メイヤスーの議論を参照しながら、このような偶然性は人間的認知を凌駕するはずで、思考し予想する主体が妨げていると考えた。

メイヤスーにとって絶対者は、思考の外、精神の射程外、一切の因果性の外に措定されなければならないとし、それを「事実論性の原理」と提案した。

事実論性の原理は、思考から独立した実在や物質を同定することである。たとえば、ぼくらは神が実存するともしないともいえない。なぜなら、彼は実存するかもしれないし、しないかもしれないからである。彼は明日の朝あなたが目覚めたときにあなたの前に現れるかもしれないし、あなたは一生かけても彼にお目にかかることはできないかもしれない。

ユクはメイヤスーの次の一節を引用する。「それが別様でありうる、またはありえた、ということをわたしが知っているところの、あらゆる存在体や物や出来事を「偶然」と呼ぶことにしよう。わたしはこの花瓶が、実存しないことがありえた、または別様に実存することがありえた、ということを知っている――わたしはこの花瓶が落ちなくても済んだはずであったことを知っている」

別様の可能性は、一つの絶対者であり、秩序や法則を導き出す可能性をまるでもたないものではない。メイヤスーの偶然性の必然性は、カオスへの回帰を提案している訳ではなく、偶然性の絶対性の肯定を提案している。

つまり、絶対的な偶然性はシステムの多元性を肯定する。絶対的な偶然性の積極的な用途とは、システムが粉砕する必然性を肯定することで、いかなる網羅的な単一システムにも限界を設けることである。

単一のシステムとは、均一的な世界文明、グローバルな時間であり、多元論の終焉のことである。ここには同期化、共時化のサイバネティクスの精神が横たわっている。

多元性を肯定する絶対的な偶然性は、ポストモダン的な普遍的なものについての言説の繰り返しではなく、テクノロジーの発展を再考するべく局所性に回帰することなのである。

ユクはこれを宇宙技芸的な思考と呼ぶ。なお、この高次の立場を文化と呼びたい誘惑にユクはかられたが、たやすく文化本質主義や自民族中心主義の餌食になるから文化と呼ぶことを正当化できないとした。

サイバネティクスから機械論、有機的なもの、有機体論、器官学をたどって、再帰性と偶然性とともに、来たるべき宇宙技芸の再概念化を試みるのが本書である。

この多元性の肯定には、まさしく自由の問いが横たわっている。自由になるということは、「差異化」する能力をもつということ、「遅延化」する能力をもつということである。それは、数世紀にわたる共時化としてのグローバル化した時代の後に、未来を分岐させることのできる能力をもっている。

テクノロジーの多元性を肯定するために、再帰性と偶然性で、自由における差異化と遅延化は実現できるのか。グローバル化した時代に抵抗する別様のテクノロジーの在り方、あるいはオルタナティブな活動や運動を考えることはできるのか。

情報の量的・質的な理論、カントの反省的判断力、シモンドンの個体化の概念を、サイバネティクスの前史として参照してさらに議論は深まっていく。

ユクは、サイバネティクスにおける「情報」の概念が、根本的に偶然的で再帰的であると考える。

サイバネティクスの提唱者 ノーバート・ウィーナーにおける情報は、「秩序と無秩序」の測度であった。つまり量的である。情報が多いということは、そのシステムはより秩序だっているということを意味している。

ウィーナーと同時代に活躍し、情報理論の父と呼ばれるアメリカの数学者 クロード・シャノンにおける情報は、「驚き」の測度であった。訪れる出来事は驚きを含んでいればいるほど、より情報を含んでいるということで、こちらも量的だ。

有機的な出来事が起きることで、未知の偶然性の情報が、量的に増えたり減ったりするということであろうか。生命の崩壊や死と対立する自己保存、エントロピーが「再帰性」を量的に根拠づけるのか。では「偶然性」についてはどう考えたらいいか。

こうした量的、あるいは統計力学・熱力学のエントロピー的な情報の理解に対して、同時代のアメリカの人類学者 グレゴリー・ベイトソンのいう情報は、質的であった。彼は、情報とは差異をつくる差異にほかならないと考えた。

多元性を肯定する絶対的な「偶然性」には自由の問いが横たわっており、自由になるということは「差異化」する能力をもつとしたユクの議論を思い出してほしい。

ベイトソンは、情報とは何よりもまず差異であり、そしてそのような差異のパターンにより産出されると考えた。それは冗長性に退行するのではなく冗長性に依存する情報理論だ。それはノイズの消去を目指すものではなくむしろ偶然性を必然性とみなした。

ベイトソンがいう差異をつくる差異とは「接続するパターン」であり、もろもろのパターンどうしの接続、たとえば関係、ならびにそれらのパターンの統一性を絶えず探求している。

人間はもろもろのパターンを知識して帰納することで学習する。情報は差異によって、つまりパターンに取り込み切れない新しさによって産出される。人間が知識するということは再帰的なのであり、ここには差異が絶えず導きいられている。

偶然性とは、有機的な出来事が起こることである。未知の偶然性の情報が、量的に増えたり減ったりすることで秩序と無秩序がシステムに影響する。訪れる出来事は驚きを含んでいればいるほど、より情報を含んでいる。さらに人間は質的に差異である情報を導き入れて、差異のパターンの学習して、探求のフィードバックを絶えずしている。

情報の量的・質的な理論を参照すると、情報が再帰的であるということがより明晰になる。

このように人間が知識するということは、みずからに回帰するよう操縦して、未来に投企するという意味で、反省的な思考なのだとユクの議論は続く。

ユクは反省的な思考について、19世紀のドイツの哲学者 イマヌエル・カント判断力批判』における反省的判断力がサイバネティクスの一形態であると考える。

反省的判断力はサイバネティクスに継承されており、この推論形式は帰還的因果性なのだ。帰還的因果性とは、みずからに還帰することでみずからに作用する因果性であり、フィードバックを翻訳したものである。

帰還的因果性の関連では、20世紀のフランスの哲学者 ジルベール・シモンドンもカントを論じている。シモンドンは、帰還的因果性で構成された連合環境をもつ技術対象を、技術個体と呼んだ。

サイバネティクスの前史として参照する、カントの反省的判断力、シモンドンの個体化の概念が一気にでてきたが、シモンドンのカント解釈を中心に、ユクは整理していく。

まずは技術個体について。そもそもシモンドンの個体化とは、再帰的な過程であり、その動態は互酬的でありながら全体論的である。

この有機的なモデルについて、カントは一本の樹木を例にあげ、みずからを再生産する植物本性と、環境からのエネルギーを吸収し栄養に転じて生命を持続させることと、樹木の枝葉などさまざまな部分が酬的的な関係を確立することで全体を構成していると記した。

個体化の動態は諸部分と全体の互酬的な関係と再生産の能力によって成立している。

シモンドンは、個体化は同時に心理的かつ集団的であると考えた。つまり心理的なものは集団的なものから分離することができない。それはつねに外部を探し求めているという意味で超個体的なのであると。外的なものの内化(心理的なものが集団的なものから分離できない)と、その逆の内的なものの外化、このような再帰性を通じて個体化は達成される。

この超越的な固体化はのちほどすぐに触れる反省的判断力の議論にもつながる。

シモンドンの個体化とは、周辺環境の不一致を念頭において自己を差異化していくことにより、あらたな準安定へと到達しようとする、たえざる変化のプロセスだ。

個体化の準安定性とは、平衡に向かおうと規定される恒常性に対抗するものとシモンドンは考える。平衡とは個体化の行き詰まりにほかならず、つまり死である。準安定性は安定しているが平衡ではない。

再帰性における差異化、差異をつくる差異の情報の議論を思い出してほしい。両立不可能性ないし非対称性、つまり不一致こそが個体化の原動機である。

活動するということは上昇し準安定化するということを意味する。成功した個体化はどれも一つの量子飛躍のようなもので、そこには或る離散的なエネルギーの水準から別の水準への上昇がある。そしてまさにそれらのエネルギー水準が離散的であるがゆえに、それは準安定性を与えることにもなる。

準安定性とは過渡的な一状態であり、新たな個体化の過程の引き金がひかれたら別の位相に移行することもある。つまりさらなる諸条件(物質的、エネルギー的、情報的)がこの個体化の閾を超克するのに適したものとなるとき、次の個体化が起こる。

樹木の例にあったような共同性と互酬性、心理的かつ集団的であり、準安定性をもつのが個体化の特徴だ。

サイバネティクスにおけるフィードバックの翻訳である帰還的因果性、心理的であり集団的である特徴について、カントの反省的判断力が参照される。

ここからは一部、カント『判断力批判』の最良の入門書である、小田部胤久『美学』を参照しながらすすめていく。趣味判断の範例性、共通感官の観点における小田部の解説は、サイバネティクスにおけるフィードバックについて理解が深まる。

人間がなぜ対象を美しいと感じるのかを論じたカント『判断力批判』は、個人の趣味判断が、人々から賛同されるのはなぜかについて、「範例的」なのだと捉えている。

カントは、趣味判断は普遍的規則を示すが、その規則はそれ自体としては明示できず、ただその実例が与えられるのみであると考えた。

この規則とは、概念的に規定された普遍的な原理ではない。もちろん、経験の一般性のような個々の事例の積み重ねからは、真の意味での普遍的原理が生じることはない。

カントは趣味判断について「範例的」の語を採用した。それは概念的でも、経験的でもない。これは、個々の実例が、それとしては明示することのできないにもかかわらず、普遍的規則を具現する、という事態である。

概念的ではない「普遍的規則」とは何か。それをカントは「共通感官」と呼ぶ。共通感官とは、あらゆる人々が賛同する「共通の感情」を意味する。

範例的とは、共通感官による判断の事例としての趣味判断なのだ。これは、「概念をとおしてではなくただ感情をとおして、しかしそれにもかかわらず普遍妥当的に、何が気に入らないか、を規定する」原理だとカントは残している。

共通感官(あらゆる人々の共通の感情)とは何か。それはあらゆる人々とぼくら個々人の判断が合致するのではなく、あらゆる人々がぼくら個々人の判断と一致すべきであるという。

けれども趣味判断は、この共通感官で、あらゆる人々の共通の感情を容易に包摂できるのだろうか。カントは、共通感官は「理想的規範」に一歩一歩接近することができるという。

趣味判断について、人は容易に包摂に関して誤りうる。実際に、現実に下される趣味判断は「範例的」ではないともいえる。

例えば趣味判断は極めてしばしば他者に否定される。判断者自身によって「範例的」と思いなされた個々の趣味判断が実際には「範例的」ではなく、相互に対立するという事態だ。

だが、自分の判断と異なる他者の判断との出会いは、自らの判断力を鋭くするような訓練をする機縁となる。訓練的、「反省的な機会」を繰り返すことで、かつての誤った趣味判断から自発的に離れることができる。趣味判断は、個別性の次元に閉ざされていないのだ。

「美しいもの」にかかわる限り、個々の趣味判断は普遍的な原理ないし規則を参照する。必然的に複数の人々に妥当しなくてはならない。趣味判断の複数性は、往還構造あるいは反省構造に基づいている。

つまり帰還的因果性であり、心理的で集団的であり、これはサイバネティクスにおける個体の構造なのだ。

このような<事実問題>が「適用」され続けることで、<権利問題>としての「原理」の正しさが捉えられる。包摂の規則が不在であるにもかかわらず、趣味判断が「範例的(妥当性)」と呼ばれるのはこのためである。

範例性をめるぐ議論において、ジャック・デリダが『判断力批判』を主題とする論考「パレㇽゴン」で展開する内容も補助線になる。

デリダは、書物あるいは芸術作品には認められる独自の範例(exemplaire)の構造があり、それぞれの場合において、範例の構造は独自であるという。範例とは、理念的な物の事例が事例として存在する様態であると考えた。

またカントの「反省的判断力」は特殊なもののみを手にしており、普遍性へと遡り、そこでは事例が法則が先立って与えられていることをデリダは主張した。事例は、その事例としての単一性それ自体において、法則を発見することを可能にする。

芸術や人生において、その概念をわれわれが持っていない合目的性(=いわゆる目的なき合目的性)を想定すべき場合にはいつでも、事例が先行する。事例がその単一性において法則の発見に寄与するとは、事例が範例的であるということを意味すると考えたのだ。

情報の量的・質的な理論、カントの反省的判断力、シモンドンの個体化の概念からサイバネティクスの前史を振り返ってきた。

ここからユクは、サイバネティクスにおけるテクノロジーの議論を深めるために、ベルナール・スティグレールが記し残してきたこともつなげていく。ユクは2008年から彼に師事しており、彼は2020年の夏に亡くなってしまったばかりのフランスの哲学者だ。

ユクは、スティグレ―ルの思考に再帰性の概念があると考えた。それは再帰性が「把持」と「予持」の回路というものに刻印されている点についてだ。

把持と予持という二つの概念は、フッサールの内的時間意識の理論から援用されたものである。把持とは想起ないし保持する能力のことをいい、予持とは予科する能力のことをいう。

第一次そして第二次の把持 / 予持に基づいて、スティグレ―ルはさらに第三次把持という概念を発展させる。

把持と予持の差異が、デリダ差延という概念をもたらし、そしてこの差延に基づいて差異化と遅延化として第三次把持がスティグレールによって明文化された。

では第一次そして第二次の把持 / 予持、さらに第三次把持とは何であろうか。把持と予持の具体的な例として音楽が挙げられる。

第一次把持とは、はじめて曲を聴いているときのことだ。メロディのすべてをいまどれも保持することになる状態である。どのいまもつねにすでにもはやないから、このメロディの把持は第一次把持と呼ばれる。

それと同時に、ぼくらは到来しつつあるメロディを予科することもできる。この到来しつつあるいま(まだないもの)の予科は第一次予持と呼ばれる。

もし明日になってその曲を想起するなら、それはもはや一時的に保持されたいまではなく回想であり、つまり記憶ないし第二次把持である。

そしてすでにこの曲の記憶を持っているから、フレーズの終わりまでそして曲の終わりまでを予科することもできるのが、第二次予持と呼ばれるものだ。

スティグレ―ルの「第三次把持」の概念は、人工的な記憶のことである。テクノロジーによる記憶だ。第二次把持は時間とともに曲の記憶がぼやけていくが、レコードやCD、MP3があれば記憶を回復させるのに役立つ。

第一次、第二次そして第三次の把持は、第一次そして第二次の予持とともに、このような一つの再帰的な回路を形成する。

有機体にはみずからの経験をすべて把持するということはできない。その経験を象徴や道具として外化しなければ次の世代に伝達することもできない。

さらに、第二次把持をぼくらは記憶と呼んでいるが、これは第三次把持を通じてしか効果的に活性化されない。というのも記憶の共時化と通時化の力は第三次把持(たとえば文章や画像)が提供しているからである。

この議論をさらにすすめて、ユクは「第三次予持」の概念を考えた。

第三次予持がデジタル・テクノロジーによって再構成された時間構造、サイバネティクスを研究するための要であるとユクは考えた。今日これが自動化社会、ビッグデータアルゴリズムの大きなテーマであることは明らかで、そこではあらゆる可能な出逢いが計算で導き出されている。

それはマーケティング戦略が「無意識の操作」から、ビッグデータの分析へと移行しているからである。つまりそれは「意識の操作」なのである。ケンブリッジ・アナリティカ事件で目撃したような。それはまた予科の問いでもあり、これがぼくらを自由の問いに直面させるとユクは主張する。

第三次予持における、いわゆる未知のもの(偶然性)の認識論はそもそもどうしたら可能なのだろうか。

ユクは、このように一見したところ神秘的であり、未知のものや不可知なものを、ハイデガーが存在と呼ぶもの、根拠のあり方と結びつける。

ハイデガーは、講演「根拠律」において、ライプニッツのいう「何ものも理由なしには存在しない」を「何ものも根拠なしには存在しない」と翻訳し、これについて二つの解釈を提出している。

第一の解釈は論理学的なものである。理由ないし説明としての根拠ということだ。この説明は人間に対して、それも判断する主体としての人間に対して与えられる。このような判断において客体は一つの対象となり、人間のしかもその視点の面前にみずからを位置づける。ハイデガーは根拠律において次のように記した。「いかなるものも、それが思惟にとって一個の計算可能な対象としてしっかり確立されたとき、そしてそのときのみ、実存するものとして数えられる」

論理学的な第一の解釈は、近代テクノロジーとともに現れた。近代テクノロジーは対象の計算可能性に基づいているからである。したがって根拠律の支配が近代テクノロジーの時代の本質を規定しているのだ。

ハイデガーの第二の解釈は、存在すると根拠が問題となる。これはすなわち存在の問いである。第二の解釈では、根拠は存在する、つまり根拠は存在に属している。

ユクは、第二の解釈こそがスティグレ―ルの思考、再帰性の概念における「把持」と「予持」に関係するのだと指摘する。

第二の解釈における根拠は、何故(warum)の問いに答えるものではあるが、原因(weil)ではなく、期間(dieweilen)を意味する。つまり「その間に」ということである。

ハイデガーはこう結論する。「逗留すること(weilen)、滞在すること(wahren)、常住すること(immerwahren)、これこそが存在という言葉の古い意味なのである」

この結論には彼の1949年の講演「技術への問い」がこだましている。そこでは本質という言葉が、永遠に存続するものとして解釈されていた。ハイデガーにとって根拠の中心的な問いは存在の保存なのである。

ユクはこのような根拠と、第三次把持と予持について、リオタールがサイバネティクスに由来するシステム理論を、一つの強力な統治と社会統制の思想としてみていることを示す。それは都市、自動化社会、ビッグデータアルゴリズムの「事実的根拠」および「計算可能性」の議論に敷衍していく。

リオタールは、法律的根拠から事実的根拠への移行を明確に見極めた。つまり法律の規範性から、行為の遂行性へと置き換えられた。法律ではなく事実が規範を定義して、正当化すると考えた。

法律的根拠が事実的根拠に置き換えられているというリオタールの批判は、知識生産の変化、つまり知識、あるいは狭義には真理が、もはや権威によってではなく、もろもろの事実からの帰納によって生産されているということだ。

2008年ですでに、当時の『WIRED』誌の編集長であったクリス・アンダーソンは、ビッグデータの時代には、アルゴリズムビッグデータが理論モデルを生成できるようになるから理論はもはや不要になると提言し、理論の終焉を告知していた。それから10年以上が経ち、深層学習が普及したことで、自然科学と社会科学におけるビッグデータの活用はますます増加傾向にある。

再帰性に基づくシステムの有機的な総体性、つまりサイバネティクスはさまざまなテクノロジーの計画(たとえばスマートシティやIoTなど)を通じて実現されており、これが惑星的な計算というものを特徴づけている。

ユクは、機械の新たな予科能力を第三次予持と名づけた。第三次予持の先制が可能であるのは、ひとえに計算的解釈学のおかげである。これは本質的に再帰的なのである。

つまりこれは絶えず過去を評価することで未来を予科し、それがさらに現在を規定する。人間存在たちは、個人としてだけでなく集団や共同体としても、機械の時間性に統合され直す。

ハイデガーが考えた、根拠の中心的な問いは存在の保存であること。彼が哲学の終焉の後にくるものとして、サイバネティクスと答えたこと。機械による有機的な第三次予持こそが、まさにアルゴリズム的統治と呼ばれるものである。

ユクの見る限り、今日のこうした新たな時間構造に介入するには、今日の知識生産システムにおける方法知、あるいは精確には技術知を定義し直す必要があると考える。

このことはまさに今日における知識の問いを提起する。計算可能性と事実に還元できるような知識など、極めて限られた概念でしかないのではないだろうか。

リオタールはすでにこう記している。「知識は一般に、還元しえないし、学習にさえ還元しえない。学習とは言明の集合にほかならず、その言明とはいろいろな言明のなかでも厳密に限られたものでしかなく、対象を指示ないし記述しており、真偽をいえるものでなければならない」

知識や科学が計算に還元可能であるという考え方を却下するということはつまり、科学的な知識の領域を超えた方法知や生活知や傾聴知のような知識があることを示そうとしているわけである。

スティグレ―ルは、方法知が生活知に必要であり、それゆえ方法知の欠如は無産階級化の一つのかたちにほかならず、これによって暮らしの術が掘り崩されると実存が問題に陥ることを問題視した。

デジタル化時代における知識の意味の変化は、知識生産と意思決定が機械に委譲されようとしていることを浮き彫りにする。だからいま知識の問いはこれまで以上に統治の問いなのであると、リオタールは警鐘を鳴らした。

本書は、アルゴリズムやAIが悪いと言っているわけではない。反テクノロジー的なスタンスでもない。むしろサイバネティクスは、機械的モデルと有機的モデルの2つのモデルの二元性を超えることで成り立っていると近代テクノロジーを評価している。

ユクは、テクノロジーが普遍的なものであるというコンセプトに警鐘を鳴らしている。サイバネティクスの覇権の結果、技術は普遍的なものであり、進歩の歴史は一つであるという考えは脱却しなければならないと主張する。

複数のテクノロジー(宇宙技芸)の発展、テクノ・ダイバーシティの発展を通じて、現代のテクノロジーの変革を考えているのだ。

けれども世界史の概念は、前近代→近代→ポストモダン→終末論という線形の過程として分析されてきた。人間主義の言説において、このことはかなり単純化された世界史の捉え方をする一種の政治神学になっている。

ユダヤ - キリスト教的な黙示録の終末論が一つの支配的な言説において、科学とテクノロジーが推進するシステムは人間の実存にますます好適なものとなってゆく。これは最終的には自己破壊に直面し、残るのは救済ないし弁神論としての世界史の成就であるという。このような歴史の終焉がホモ・デウスという概念と共鳴しているのも驚くにあたらない。この概念によると弁神論は人間性が変容して神の国に入ることで示されることになるというからである。

『ホモ・デウス』の著者は、人間をアルゴリズムに還元するデータ主義を導入する。トランスヒューマニスト、ポストヒューマンの一形式は人間性の未来を予言している。すなわち人間性はもろもろの人工知能に還元できるようになり、そしてそれらの人工知能は全知の一つの超知能に統治される予言の書だ。

ここにも自由への問いがある。個人の自由と集団の自由の、二つの種類の自由を区別して考えられる。技術システムが一つの超有機体として実現されることで、個人の自由は侵害されるかもしれないが、集団の自由が実現される。

しかし「集団の自由」とは何であるのか、そしていったいそれは個人の自由を犠牲にすることについてどう弁明するのか。

進化の過程と超有機体の実現について、今日のこのイメージは技術的特異点(シンギュラリティ)という幻想により補強されている。技術的特異点を迎えるとテクノロジーの開発は垂直的な加速を見せるようになるというような。そうするとこれは一つの人間性の真の成就といえるかもしれないが。

この終末論の精神のような人間性の成就は啓示か、それとも破局か。ぼくらはテクノロジーによる不確実性と不安定性の時代に生きている。

サイバネティクス、すなわち形而上学の達成とは、この時代に対する一つの見解であり、グローバル化と新植民地化を通じて「人間性」を統一する力である。それは精神圏が生物圏を超えて地上で最も支配的な圏域になる。ゲシュタルト心理学の語彙を使えば、テクノロジーが図(figure)ではなく地(ground)になるということだ。

ユクは、このようなシステムの問いを試みない未来の哲学は何であれ根本的に足りないと指摘する。

本書はこのようなホモ・デウスをその絶頂とする単数の世界史に還元されてしまった技術多様性について、技術と哲学の観点で反省する一つの試みである。

資本が共時化と収斂に向けて勤しむ世界の中で、どうすれば技術多様性が可能となるのであろうか。

完全自動化が実現すればテクノロジーと労働者をともに資本主義から解放できると信じている理論家たちもいるが、しかし彼らはテクノロジーを一つの普遍的なものとみなす。テクノロジーの歴史や人間 - 機械の複合体の歴史が唯一で単数しかないとみなす過ちを犯している。

どの国民国家も今後それぞれに加速主義の行政機関を設置するようになるのは火を見るより明らかであり(たとえばドバイは2017年に人工知能大臣を任命している)、これが何らかの解放的な政治となり、グローバルな時間軸の共時性をひたすら強化するような政治にはならない、などということは想像し難いとユクは考える。

人類学者たちが提出する異なる複数の自然を考慮するのみならず、異なる複数の宇宙技芸を考慮することで、未来と世界史の分岐の可能性を捉える必要性がある。

けれどもいったい中国のテクノロジーとヨーロッパのテクノロジーの違いとは精確にはなんであるのか。例えばそれは両者が異なる形状のスプーンを生産するということをいうのであろうか。しかしそれらは同じ機能をしていないか。つまりスプーンはスプーンではないかと。

ユクはテクノロジーの違いが機能にあると主張するつもりはないという。ハイデガーやシモンドンもそのために努力をし、むしろ機能の先を見なければならないと考える。

歴史家たちは、地理的に異なる複数の地域におけるテクノロジー同士を比較するとき、どちらがより進んでいるかを見極めようとしがちである。例えば製紙技術の比較。あるいはひとつひとつの特殊なテクノロジーを比較するのではなく、一つの全体としての技術システムを比較しなければならないと考える。

いずれの場合も、テクノロジーは普遍的であり、すべてのテクノロジーが一つの普遍的な進化に沿って計測可能であるという理解を前提にしている。

ユクが異なる複数の宇宙技芸というとき、それはテクノロジーの哲学と歴史についてのこうした支配的見解に対する挑戦なのだ。

ユクは2019年に東京に来日したトークショー「Is a Post-European Philosophy of/in Technology Possible?」で、技術が普遍性と特殊性を併せもつことを語っている。

「技術はたとえどんな文明や文化圏のものであっても、身体の機能(切る、支える、刻む、持つ……)や、記憶を外部化したものであるといったような共通点ないしは傾向をもつ」

「同時にひとつの事実として、技術は各文化によって異なるかたちであらわれ、場合によっては、たとえ外来の技術を取り入れてもそれに取って代わられることなく保全されるのである」

ユクはこうした技術の特殊性の例として料理を挙げる。例えば海外のおにぎりや寿司屋をイメージしてほしい。つまり、外国のレシピや調理法を取り入れても、もとの食文化が消滅することはないということだ。

技術の特殊性は、ユクの哲学を支える重要なポイントだ。なぜなら、個々の技術が特殊であるという事実によって、それらの技術に関する思考もまた特殊かつ複数でありうるという洞察が導かれると彼は考えている。

ユクは2020年4月に発表した別の論考「One Hundred Years of Crisis(百年の危機)」で、技術の多様性の実現、そして普遍的な単数の世界史観の問題点を記している。

「具体的な連帯を生みだすには、技術多様性を実現し、それによってべつの種類のあらたなテクノロジーを開発する必要がある。それはたとえばあらたなソーシャル・ネットワークや共同作業のためのツール、それからグローバルな共同作業の基盤を形成しうるような、デジタル技術にもとづく組織のインフラである」

「私たちは、ここ数十年にわたるハッカー文化フリーソフトオープンソースのコミュニティの発展をよく見てきたわけだが、それらの目的は覇権を握るテクノロジーに対していかに代替案を生みだすかというものであって、べつの種類のあらたな接続や共同作業の方式を構築することはなく、またあらたな認識論を打ち立てるというより重要な方向にも向かわなかったのである」

この認識論に関連すると、例えば「システムを変える」、「システムと戦う」、「システムをハックする」の言及で飽和している政治とメディアの空間は、システムの用語の何が問題なのかを理解し、その歴史に目を向けてきたのであろうか。本書がサイバネティクスについて深く議論してきたのは、あらたな認識論を打ち立てようとする試みなのだ。

最後に本書とは別のテキストを紹介して結びとする。日本の批評家 東浩紀が、2019年に中国・杭州の中国美術学院で講演した内容だ。このイベントはユクの企画であり、リオタールの『ポスト・モダンの条件』の出版40年記念シンポジウム「ポストモダンとその後?」の講演の一部である。スティグレールも登壇したイベントだ。

東は、国家と資本の要求に最適化したものへと変化した知の「ベスト・パフォーマンス」化は、いわゆる科学だけの話でも、大学のなかだけの話でもないと指摘した。

2010年代は、ゲームの最適化の論理は日常生活にまで浸透していると。ぼくらはいま、フェイスブックで、ツイッターで、あるいはインスタグラムで、ティックトックで、自分たちの生を、みずから望んで国家と資本の要求に最適化するように(もっとも多くの「いいね」が稼げるように)切り取り編集して、嬉々としてアップロードし続けている。

グローバル化した時代を、東は本書の問題意識と同じ視点で捉えている。「それはあたかも、ポストモダンにおいては、生きることそのものが、惑星規模の巨大なネットワークをゲームボードとし、プラットフォーム企業を管理者として、ひとつの巨大なゲームをプレイすることに変わってしまったかのようだ」

ユクが提案する宇宙技芸の可能性。それは、現代のテクノロジーが課す収束と同期を断ち切り、多様性と局所性を探求する。

サイバネティクスの全体像から抜け出せるようなパラダイムを発明することが必要なのだ。

グローバル化した時代は、基本的には経済的な競争であるが、加えて技術的な競争になっている。

経済と技術の競争が地政学の戦場になるならば、例えば気候変動の政策にラディカルな変化を期待することは難しいかもしれない。どの国も経済成長、技術競争、軍拡を優先しているならば、気候変動への取り組みが根本的な変化をもたらすことはあるのだろうか。

多様性と局所性を探求し、システムへの問い、新たな認識論を打ち立てた外交の問題として考え直さなければならない。

テクノロジーが私たちの物質的環境を構成し、自然が私たちと調和して統合された世界ははたしてユートピアだろうか。経済的、技術的な競争をしたいのなら、ぼくらは第三次予持を中心とする根拠の世界、サイバネティクスのひとつの巨大なゲームのなかで勝つことでしかチャンスはなくなっていく。