小さな flaneur のテキスト

1985年4月4日、東京生まれ。

あなたは恐らく奴隷機械に寄付をしている

週に一度のペースで、インターネットの動画配信をしている。この仕事をするようになってから、1年以上が過ぎた。

まったくの素人だったぼくが、HDMIケーブルとmini HDMI、micro HDMIの区別、分配器を使うためのインプットとアウトプットの仕組みぐらいはわかるようになり、超基礎的なところは自力で考えてできるようになったのである。

生放送の30分前になると、機材の設定漏れがないだろうか、機材は熱くなっていないだろうかと配信以外の仕事に集中ができなくなる。生放送の5分前は、突然トラブルが起きないかと機材を見守りながら放送が始まる。1年経ったいまでも落ち着かない。

ぼくたちのこの1年は、機械に対する管理業務が加速化している。Zoomをはじめとするビデオチャットツールによる会議やイベント、SNSやメッセージングアプリのコミュニケーションに、ぼくらの仕事や日常はほぼ完全に置き換えられた。

そこでは、いかに効率よく、トラブルなく機械やサービスを利用できるかが求められている。どの業種であっても、機械操作が基本スキルとして当たり前となった。テクハラという言葉がニュースになるくらいに。

それでも人のマネジメントに比べれば、仕組みを理解して、順番通りに動かせたなら機械のマネジメントの悩みは少ない。

手順さえ間違えなければ、機械はある程度動く。機械に意思や気持ちの機微はないし、生活や給料の悩み、将来の人生設計、仕事におけるキャリアの心配などない。

人のマネジメントは配慮する領域が広い。機械に対してはこのような精神面の尊重、想像するしかないライフスタイルの事情などは考慮せず、物理的に丁寧に扱えば良いと考えると、機械ほどマネジメントが楽なことはない。

人とのコミュニケーションにおいて、Zoom越しやSNSや動画のチャットのコメントなど、機材や配信システムを経由したやりとりが圧倒的に多くなった。時折、対面で誰かと食事をするときは新鮮な喜びを感じる。

対面における新鮮な喜びと、機械を経由した効率的なやりとり。コミュニケーションの質で何かが変わり始めている。以前からぼんやりと考えていたことをより自覚した1年だった。2015年以来、ぼくはSNSで積極的な発信をするのをピタリとやめた。そうしたら、対面のコミュニケーションでずいぶんとおしゃべりになった、例えばそのような質的変化だ。

相手や社会があることを意識して、SNSで発信していたが、SNSの相互コミュニケーションと、対面の相互コミュニケーションは、五感の情報量はもちろん、話しの質までがかなり異なると、当たり前のことを思いなおすようになった。

コミュニケーションはメディアの変遷によって変わり続けてきた。媒介する何か、接触するメディア、インターフェイスによって、21世紀に生きる人間の行動の変化について、あらためてとらえなおすタイミングではないだろうか。

寄付や署名行動の質的変化が起きているのではないだろうか。ぼくはNPO業界で仕事をしながら考えている。

寄付の本質、署名の本質の解明については、先行する研究者や実践者が多く語ってきており、本質論はそちらに譲りたい。本質ではなく、接触するインターフェイスによる行動の質的変化を見ている。

社会貢献活動に参加する一個人にとって、 対面の街頭募金や署名行動と、ネットや特にスマートフォンによる寄付や署名行動において、寄付の質、署名の質が変わってきているのではないだろうか。

寄付する瞬間、あるいは署名する瞬間に人間の五感を刺激する、接触インターフェイスを3つに分けて、図表を作成した。共通して聴覚の刺激はありつつ、図表の一番右の列「触視=触覚+視覚」について、大きな変容が見えてくる。

非営利組織や社会貢献団体が、寄付や署名活動を洗練させるためのヒントが隠れた図表となった。あるいは、最新と言われている寄付や署名の手法に、納得していない人の違和感が解明される図表ではないだろうか。

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メディア情報学者の石田英敬は『新記号論』において、フロイトの心の装置のモデル(局所論)によって、ぼくらの無意識や夢が、現代の機械にシネマトグラフィーのように構造化されていることを分析した。

フロイトは100年以上前に、「Wunderblock(ヴンダーブロック) : マジック・メモ、不思議のメモ帳」と称した、スマートフォンあるいはiPadのような装置で、人の心の構造と機能のモデルを展開している。

ぼくらはスマートフォンiPadに触って、あらゆることを書き込む。テキスト、写真、インターネットやアプリの閲覧履歴、生体情報にいたるまでの個人情報を、機械に書き込み続けている。本人でも思い出せない量のデータ、もはや無意識となっていること、身体の記憶が、タッチパネルを通じて、なんでも放り込まれている。

フロイトの心の装置のモデルは、スマートフォンのような「Wunderblock(ヴンダーブロック)」の装置で、人間の無意識や夢を説明する。スマートフォンに、あらゆる好きなこと、気になること、もしかしたら避けて抑圧してきたことなどが、痕跡として刻まれて、機械内で構造化される。痕跡として書き込まれ、放り込まれた情報が記号として浮かんできて、毎日の行動の指針を与えてくれる。ぼくらが接した世界のあらゆることを、無意識を夢のように思い出せて、生活を支えてくれているのがスマートフォンだ。

たしかに自分の意志でスマートフォンのタッチパネルを指で動かし、アプリを立ち上げている。そこには明確に意識がある。けれども、そこに立ち現れてくる情報や記号は、ぼくがなんでも放り込んだ無意識に基づいており、アルゴリズムの結果が意識として抽出されている。

例えばSNSのタイムライン。ツイッターでフォローしている全員を、もはや把握できないし、する必要もない。にもかかわらず、フォローしている人の情報が出てくる仕組みなのだ。フェイスブックに数年前の写真が突然現れる「思い出機能」は、思いがけないノスタルジーや、驚きや喜び、場合によっては亡くなった人への深い悲しみすらをぼくらにもたらす。

もはやスマートフォンの機械無しで、ぼくらの意思決定はありえない。つまり、寄付や署名行動の質的変化について、無意識がより意識への侵犯を強めていると考える。そしてこれこそ、人間の根本的な知性にアプローチできている予感すらある。

大げさに言って、寄付や署名行動は人間の知性に大きく左右される。

市民も庶民もスマートフォンで情報収集、情報発信、そして寄付や署名行動をするようになった。SNSや決済情報をもっているサービスが、そのデータを活用して、スマートフォンの画面に立ち現れてくる。

コロナ前後の世界のありようは、感染症と並行してポリコレ、ジェンダーのイシューが、スマートフォンSNS、動画を通じて世界に働きかけ、絶えまなく流れ続けている。「オンラインデモクラシー元年」と評する大手新聞メディアもあったように。

この世界で個人が寄付先を見つけたり、オンライン署名をする意思決定プロセスに、スマートフォンが欠かせない。スマートフォンの機械から、ぼくらの集団的、集合的な無意識が刺激され、言語が生産されて、寄付先や署名先の選択肢が現れ出てくるのだ。

人に寄付をしているという事実は結果的には変わらないだろう。けれども、AI、ニューラルネットワーク、マシーンラーニングに支えられた、機械の経由が欠かせない寄付や署名行動になっている。機械にためつづけた情報、ネットワークの集合的な無意識によって現れている寄付であり、署名行動だ。もう一度、図表を眺めてほしい。これは対面募金、対面の署名行動では仕組化されていなかったことだ。現代の書き込み機械があることで、無意識がまるで夢のようなメカニズムで、人間の知性を侵犯してくる。

ここで、人間がスマートフォンにそこまで極端に支配されていないと反論する人もいるだろう。それはその通りで、問題はそのような支配関係ではない。むしろ人がスマートフォンを奴隷のように扱い、あたかも神のお告げのようにSNSやチャットツールでテキストやイメージを残しており、乱暴に放り込んだものを価値ある情報として創造することを要求し続ける、人間と機械の関係について、他者が不在のコミュニケーションを問題にしなければならない。

恐らく、機械と人間の関係は対等ではない。スマートフォンは、サービスにアクセスできて便利さを提供してくれる物、コンシェルジュや秘書機能、あるいは奴隷のように壊れるまで使い倒す対象である可能性が高い。

ツイッターフェイスブックについても、ユーザーはこのサービスと対等の関係性だとは思っていない。好きなようにテキストと写真をアップして、表示させることを命令している。ときおり、サーバーがダウンしてアクセスできないと、人間たちは憤慨し、クレームを何度も飛ばす。

ツイッターフェイスブック、Yahooニュースのコメントを眺めていると、コメント主がまるで神のお告げのように、テキストやイメージを残しているように見える。

ツイッターポエムと揶揄されるテキスト、姿かたちの見えない匿名の激烈な書き込み、肖像画のように加工した自撮り画像のアップ。そしてこの神々は、自分がコメントしたことなど思い出せないぐらいの、膨大な量のテキストやイメージを機械の身体に残し続けていく。

もしも、機械に意思や倫理があるなら、これらのテキストやイメージを受け取る機械の気持ちについて、ぼくらは想像して、考えを巡らすのではないだろうか。

例えばぼくは、憧れていた人の幻滅するようなSNSのテキストやイメージがでてきたら、これ以上に幻滅したくないからミュートをしてしまう。いまのところ、機械にはこの拒否する知性が無い。仮に機械に知性などあったら、ぼくらは機械との関係修復を早急に着手し、マネジメントが急務になる。このままでいると、ハラスメントとして訴えられそうだ。

人間は神になったかのようにふるまって、奴隷機械であるスマートフォンにテキストやイメージをなんでも放り込み続けることができる。

機械に知性など不要なのである。もとより機械は人間の身体能力を拡張することを求められてきた。車や電車、リニアモーターカー、飛行機がそうだ。機械に知性は必要なく、いかに効率よく人間を目的地に運ぶことのできる身体だけがあればよい。

機械には身体しか求められていない。人間のお告げを放り込まれ続け、無意識の表出を求められる身体としての奴隷なのだ。奴隷機械には意識や無意識はなく、与えられているのは、創造的な目的達成を実現するための決まった評価関数、アルゴリズムだけだ。

そういえば人類補完計画は、綾波レイという全知全能の超自我があり、人間から知性が失われ、あとは身体だけでよいとする、他者が不在の世界だ。身体だけの機械は他者になりえない。他者ではない機械とばかり接触している人間は、ほとんど他者と接触していないにひとしい。機械を経由した超自我、集団的、集合的な無意識のコミュニケーションで世界は満ちている。

つまり、人間からのお願いで寄付をしているのではなく、超自我と機械からのお願いで寄付をしているのだ。そしてこの機械とは、人間にとって他者ではなく、コントロールしたいと強く思わせる奴隷機械である。

寄付だけの問題ではない。これは他者と共同体をつくる問題にもつながる。

21世紀の新しい都市設計、まちづくりで注目をあつめる自動運転社会、スマートシティは、奴隷機械経由のコミュニケーションである。そして奴隷は主人が好まない人との出会いを生み出すことはしないだろう。主人の目的達成を最速で効率よく達成する機械から、思わぬ他者との偶然や誤配は生まれない。

これらは社会学者の吉見俊哉精神科医の熊代亨が、それぞれの2020年の著作において警鐘を鳴らした、都市のなかでの自由の権利、人間のコミュニケーションの問題でもある。このテーマの分析はまた別の機会に譲りたい。

ぼくらは、他者が不在の世界に足を踏み入れつつある。これは寄付や署名行動に大きな質的変化をもたらしているのである。

たしかに奴隷機械経由であっても、人間はだれかに寄付をしていると想像できる力をもっている。そこに変わりはないだろう。けれども奴隷機械のほうが、ぼくらのことを知っている。無意識の領域を全開にして、21世紀のぼくらは神の視点で、他者と共同体などをつくらなくても、寄付や署名行動ができてしまう。

24時間テレビの武道館の募金箱は、奴隷を経由せずに自らで寄付をしに行っていた。駅前の街頭募金は人目もあり、とても政治的なパフォーマティブなことであった。それが奴隷機械を経由することで、よくもわるくも薄まってしまう。

寄付や署名行動は、態度の変更を要求し、感情や意思にかかわる営みであった。寄付や署名行動に基礎づけられた、新しい価値観や概念、文化やルール(規則)を支えるには他者が必要だ。共同体をつくるには、規則を実践するプレイヤーだけでなく、規則を支持する他者が必要なのである。

米国の哲学者のソール・A・クリプキは、『ウィトゲンシュタインパラドックス』で、言葉の意味と規則の矛盾について論争を起こした。「68+57」の答えは「5」である!という足し算ではなく「クワス算」の文化も、他者がいればありえるのだと。それを支持する観客がいれば、ゲームのルール(規則)は維持される。サッカーとアメフトのように、手の使用に制限があったりなかったりするフットボールゲームの両方があるように。他者が支えることによって概念や規則は、共同体(言語ゲーム)をつくるツールになるのだ。プレイヤーだけでは、ゲームのルールは安定しない。

つまり、このまま寄付や署名行動が、人としての寄付ではなく、他者が不在のまま、あたかも神のように奴隷機械に寄付をし続けると、新たな共同体がつくれなくなることを危惧している。寄付や署名行動が支える概念や規則は、共同体をつくる。観客や支持者、共同体をつくる一つの大きな手段の、市民参画の契機が失われる。オルタナティブな活動を続けていくために、別のルールによるゲームの複数化、観客の複数化が必要だからだ。

あるいは、いっそのこと機械を他者にできないだろうか。機械との関係性は主人と奴隷のままでいいのだろうか。これは機械を家族やペットのように愛を注ぐことについての問題にもつながる。少なくともSNSサービスに対して、ぼくらは家族的な愛情を注いではいない。お掃除ロボットのルンバに名前をつける人はいるらしいが、スマートフォンに奴隷以上の名指しをする人は極めてまれだろう。

機械やロボットに対して、一緒に仲良く暮らすよりも、ご機嫌取りをする召し使いの身体を求めている。実はここにおいて興味深いのが、日本のロボットは、ドラえもんやアトム、アイボなど、欧米に比べると奴隷とはちがう役割のロボットをつくる傾向にある。いわゆる動物ロボット、ペットとしてのロボットだ。動物のペットは家族になりえるし、飼い主とペットの顔が似てくる謎がある。他者としての機械、ロボットへの愛についての射程が広がるテーマになりえるが、この分析もまた別の機会に譲る。

スマートフォンインターフェイスによって想起される無意識で、人間の知性が支えられていること。

ぼくらは奴隷機械に書き込み続けていることを自覚しながら、他者としての機械との関係性を考えうる段階にきている。

図表を作成しながら読み返した文献