小さな flaneur のテキスト

1985年4月4日、東京生まれ。

ポスト・ヒューマニティーズのレンズから見えた家族的な寄付

ぼくの仕事はクライアントにペーパーワークを求める官僚制に突き進んでいる。エントリーフォームの記入やワード書類を提出してもらい、そこから面談の日時調整をしてから初めて会う。その後ご一緒してからも、企画書の提出をお願いする。何かが終わればアンケートや報告書提出を依頼することになるだろう。ぼくの仕事は一事が万事この調子で、だいたい公務員と同じだと説明できるかもしれない。

2018年7月は、西日本を中心に記録的な豪雨があった。この現場に資金を提供したコミュニティ財団が岡山県にある。緊急災害支援活動には多額の寄附金や義援金が集まる。ただそれを使うには一般的には緊急災害時でも同じように、官僚的な手続きが必要だ。

岡山のコミュニティ財団も、数千万規模の他の資金提供プログラムに劣らず、官僚制のプロセスが必要なはずだとぼくは思っていた。だがそれは、官僚制の仕事からは程遠いものであった。

ある避難所にトイレが足りない声があがれば、使用目的はもちろん、資金提供の承認プロセス無く、数百万円をその避難所の運営者に提供していた。官僚的な仕事、資金を提供する市民や企業の最終承認プロセスを経ていない。これは緊急災害が特別なのではなく、岡山のコミュニティ財団は、通常の資金提供プログラムも同様に運用しているのだ。

寄付をした市民も企業もコミュニティ財団を信じている。官僚的なプロセスを必要としない。一方でぼくの仕事は必要以上にペーパーワークを設けているのではないか。ぼくは想像力によって信頼し合う人間関係を、引き受けることができずに怖れていた。

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官僚制は快楽の源泉を生むものであると指摘したのは、米国の文化人類学者 デヴィッド・グレーバーによる2015年の著作であった。彼は「われわれは99パーセントだ」というスローガンをつくり、ウォール街占拠運動の理論的指導者としても有名だ。

ぼくたちは官僚制を選択してしまい、官僚制の迷宮にはまる。グレーバーは、官僚制をゲームに例え、ゲームとは何なのか、ゲームを楽しいものにしているのは何なのかを問うた。

ぼくたちはゲームをプレイする。そうだとして、プレイとゲームは本当は同じ意味だろうかと同書は指摘する。そもそもほとんどの言葉において「プレイ」と「ゲーム」は、同じ言葉が両者をカヴァーしている。日本語の 遊び や、フランス語の jeu 、ドイツ語の spiele のように。

しかし、べつのレベルでは、プレイとゲームは対立しているとぼくたちは考える。プレイは形式に束縛されない創造性を指す。ゲームは規則(ルール)を指すといったように。

オランダの歴史学者 ヨハン・ホイジンガによれば、ゲームは特定の共通する特徴を持っているという。ゲームは時間と空間をはっきりと拘束し、それによって日常性から隔絶している。グレーバーは、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を引用し、要約している。

ゲームは、ひとつの領域(フィールド)があり、ひとつの盤(ボード)があり、開始の合図があり、終わりを決める契機がある。ゲームの時間もしくは空間の内部では、特定の人びとはプレイヤーとなる。規則(ルール)もまた存在する。それはプレイヤーができることとできないことを定めるものである。そして、なにが賭けられているのか、プレイヤーがゲームに勝利するためにはなにをなすべきか、についての特定の明確な理念がある。

さらに、決定的なのは、この枠組みがゲームに存在するすべてであることだ。この枠組みの外にある場所、人物、行為は、それがいかなるものであれ、無関係である。それは問題にならなく、ゲームの一部ではないのだ。別のいいかたをすれば、ゲームとは純粋に規則(ルール)に支配された行為となる。ゲームが楽しい理由がまさにこれなのだ。

ゲームの快楽を示したグレーバーは、枠組みの外、つまり人間存在についてのそれ以外のいかなる局面においては、すべてがあいまいであることを指摘する。家族のけんか、あるいは、職場でのライバル関係。誰が関係しているのかしていないのか、どういう態度がフェアなのか、それがいつはじまりいつ終わるのか、そもそもそこで勝つとは何を意味しているのか。それを言い当てるのは、きわめて困難である。

こうしたなかで最も困難なことは、その規則(ルール)を理解することであるとグレーバーは考える。自分の置かれたほとんどいかなる状況においても、規則(ルール)が存在する。なにげない会話においても、だれが、どのような順番、ペース、トーン、態度で話をするのか、どのような話題が適切でどのような話題がそうではないのか、いつ笑うべきか、どのようなユーモアなら許されるか、目をどのように働かせるべきか、それ以外にも無数のことがらについて、暗黙の規則(ルール)が存在する。

これらの規則(ルール)がはっきりと提示されていることはめったになく、たいていそれらの多くは矛盾をし合う。そしてその矛盾は、いつでも発見されうる。それゆえ、わたちたちは常日頃から、そうした規則(ルール)のあいだを渡り歩くという困難な作業をおこなっているのであり、他者がどのようにそれをおこなっているのか予測しようと試みている。

ゲームがわたしたちに開示するのは、こうしたあいまいさのすべて一掃された状況についての、ただひとつのリアルな経験である。だれもが規則(ルール)はどのようなものか、正確に知っている。それだけでなはなく、だれもが実際にそれらに従っているのである。おまけに、それらに従うことで、勝利すらできるのだ。

グレーバーはこのことこそが、現実の生活とは異なってひとが規則(ルール)に完全に自発的に従属するという事実とともに、快楽の源泉だと指摘する。それゆえ、ゲームとは一種の規則(ルール)のユートピアだと主張する。

このように考えることで、ゲームとプレイのあいだの真の差異も理解できるかもしれない。ひとはゲームをプレイすることができる。しかし「プレイ」について語ることは、必ずしも、規則(ルール)の存在を含意しているわけではない。純粋な形態におけるプレイとは、創造的エネルギーの純粋な表現を含意している。すなわち、「プレイ」が存在しているといえるのは、創造的エネルギーの自由な表現が、目的それ自体になっているときである。ゲームとは区別された、自由そのもののための自由なのである。

「プレイ」はある意味で、ゲームより高次のレベルの概念である。すなわち、「プレイ」はゲームを生成することができるし、規則(ルール)を生成することもできる。このオープンエンドの創造性はまた、ランダムに破壊的でありうる。

ゲームをプレイするとき、この「プレイ」は予測不可能な要素になる。その度合いに応じて、人はたんに規則(ルール)を適用するだけでなく、スキルを活用し、あるいは、賽(サイコロ)を投げ、あるいは、それ以外のやり方で不確実性を受け容れることになる。

フランスの哲学者 カンタン・メイヤスーは2011年に発表した論文で、ステファヌ・マラルメの詩『賽の一振り』を題材に、偶然性と人間のうちにある気まぐれ(プレイフル)な神性について記し、議論を呼んだ。

「賽の一振りはけっして、〈偶然〉 を廃さないだろう」。メイヤスーは、このマラルメの詩の中心テーマから、偶然の2つの在り方を解釈した。偶然は現実を肯定し、否定をするものだと考えた。

第一の偶然は、 ごくありふれた凡庸な現実を「肯定」するものだ。賽(サイコロ)を投げて出た目の〈数〉が生起した(決まった)としても、重要な結果が出ることはなかった、〈偶然〉のくだらない結果にすぎないと現実を引き受けるのだ。偶然が、生存にまつわるさまざまな失敗の姿を肯定する。

第二の偶然は、明らかに意味を備えた現象でも突然に起こった場合には、現実的ではないと「否定」するものである。例えば、命を賭けた勝負において、奇跡的に勝利に導くような賽の結果。あるいは神的な必然性によるものではないかと思わせるほどの、完全な形をした詩句である。

またメイヤスーは、第二の偶然の否定は、普通でない「偶然の一致」や、偶発的に身につけた創造の天才という形で、偶然の「再肯定」に他ならない。したがって偶然とは、それを肯定するもののなかにも、否定するもののなかにも等しく存在すると考えた。

自らの「肯定」と「否定」をともに含むために、〈偶然〉のみが「他のものではありえない」とし、この意味で偶然とは無限であり、 自らの外部には何も存在しないと彼は示した。

マラルメの詩がどのようにして、この無限性を人間の行為によって、人間と等しいものにできるのか。このメイヤスーの問いが議論を呼んだ。

〈偶然〉とはわれわれ人間のうちにある、神的なものを形象化したものだと、メイヤスーは考えた。したがって〈偶然〉 に対して人間が同等にあるということは、人間が自らの神的な部分、永遠に意味づけが不可能な部分に接近することを意味すると指摘した。

賽遊びに〈偶然〉に無限という性質が与えられた。正気の人間が、この気まぐれ(プレイフル)な神々と出会いたいと望むことなど、めったにないのではないだろうか。

デヴィッド・グレーバーは、官僚制という名のゲームの規則(ルール)は快楽の源泉であると指摘した。正気の人間にとって「官僚制の魅力」の背後にひそむものは、究極的には、プレイへの恐怖であると。

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プレイパーク、冒険遊び場と呼ばれる広場や公園がある。子どもたちが泥だらけに、刃物をつかって木材を切り、火おこしをするような場所が、住宅街の一画にあるのだ。

プレイパークを運営するNPOの人の話を聞くと、子どもとその親がとてもいきいきと遊びに参加することを教えてくれた。想像力をはぐくみ、創造的な遊び、ゲームを子どもたち自身が生み出して楽しんでいるようだ。

一方である時にプレイパーク離れが、子どもと親の中で起こるのだという。そういときは決まって、英語やスイミングスクールの習い事を始める。確かに習い事は、クラス分けや検定試験により、成長を実感できる。

純粋に規則(ルール)に支配された行為、ゲームは教育の現場でも好まれている。プレイフルな遊び、つまり火おこしをいくら続けても、子どもがいまどこにいるのか、勝っているのかはわからない。

創造性という冗長的なプレイパークよりも、構造的な習い事という名のゲームをぼくたちは選択する。プレイパーク運営者は、遊戯性(プレイフルネス)との関係構築を避けられてしまう悩みに直面していた。

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偶然性という気まぐれ(プレイフル)な神々との出会いを減らすことを、ぼくたちと官僚制は望んでいる。

SF小説家の伊藤計劃は小説『ハーモニー』で、「意識などという機能は時代遅れであり不要だとみなし得るのではないか」と残して2009年に早逝した。人間の意識は、対立や逡巡、妬みや苦悩を生む。この厄介な機能を治療してはならない理由はどこにあるのだろう。心を擁護する言葉はどこにあるのだろうと。

ハーモニーのテーマの1つは、官僚制とITの技術革新だ。これらで計算機が新しい「自然」という名のユートピアを生み出す。充分に高度化された社会システムが、全体最適化と個別最適化の融合を実現する世界観だ。

AIブーム、認知諸科学による人間の道徳判断のメカニズムが明るみになること、GAFAGoogleAppleFacebookAmazon )による行動や意識の自然科学化、緊縮と弱者切り捨ての空気が充満する経済停滞によって、アルゴリズムが「父」になった統計的超自我(あるいはテクノキリスト)をぼくたちは求めて、従うのだろう。人間の心の喪失と引き換えに。

人間の心、あるいは意識がなくなる世界で、例えばぼくの生活や行動は数値化が進む。そしてID番号で認識されて、行動の自然科学化が進めばぼくは抽象化される。今日、行政だけでなく企業、その他サービスを提供する組織は、このような官僚制という名のゲームの規則(ルール)の起動準備をしている。

では官僚制は何の規則(ルール)を採用するのか。「功利主義」、つまり最大多数の最大幸福を選択し、社会に実装するのではないだろうかという1つの見立てがある。

吉川浩満の2018年の著作に収録された「社会問題としての倫理学――道徳心理学、人工知能功利主義」が、功利主義と官僚制の考察の手引きとなる。

功利主義とは、人はなにをなすべきかを探究する規範倫理学の一理論である。中心教義は、人びとの幸福を最大化するような選択を行うべしとする「功利の原理」だ。

功利主義創始者として有名な、18世紀英国の思想家 ジェレミ・ベンサムは、正しい行為とは社会全体の幸福の総量を増やすものであり、不正な行為とは逆にそれを減らすものであると主張した。これが有名な「最大多数の最大幸福」である。

たとえば、 車の自動運転の人工知能プログラムが、交通事故が避けられない状況になったとき、どのような意思決定をすべきであるかといった思考実験のニュースが話題になる。赤ちゃんと老人どちらを選ぶか。ホームレスとドクターどちらを選ぶか。もしくは運転手自身が犠牲になることを選ぶのか。

車の自動運転の人工知能プログラム開発において検討されているのは、倫理学で扱われる「トロッコ問題」や「臓器くじ」とまったく同じ思考実験だと吉川は指摘する。

まず「トロッコ問題」の思考実験では、線路を走っているトロッコが制御不能になった場面を想像する。このままでは前方で作業中の五人が轢き殺されてしまう。しかし転轍機でトロッコの向きを切り換えれば、その先にいる一人の犠牲ですむ。あなたはトロッコの向きを切り換えるべきか?

最大多数の最大幸福を目指す功利主義の回答は、切り換えるべき、である。

次のような派生問題もある。トロッコが制御不能になったことは変わらないが、あなたは線路の上の橋にいる。このままでは五人が死ぬが、すぐ近くにいる太った男を突き落とせば、男が死ぬ代わりにトロッコを止められる。あなたは男を突き落とすべきか? 

これも回答は、突き落とすべき、である。

しかも、先の回答で切り換えるべきと答えたなら、この場合も躊躇してはならない。トロッコを分岐させることも、男を突き落とすことも、一人を死に追いやる代わりに五人を助けるという点で等しいからだ。

そして「臓器くじ」の思考実験はさらに過激である。 公正なくじで健康な人をランダムに一人選び、殺す。そしてその人の臓器をすべて取り出し、臓器移植が必要な人びとに配る。そうすれば一人の犠牲で多数の人々が助かる。この臓器くじは善か?

功利主義の回答はもちろん、善である。

このような思考実験そのものが、感情に過剰に訴えかける扇情的な哲学的ポルノのようなものとして消費されかねないとする批判はもっともだろう。

だが倫理的にも直感的にも「決定不可能」と思われるような回答を、車の自動運転を社会に実装するために、人工知能開発室では思考実験によって、道徳的原理をプログラムに事前に組み込むことが求められる。

これまで技術的な制約のために考えずにすませてきたことを、実際に考えに入れなければならなくなる事態がきている。そこに、功利計算による回答能力の高さを美点とする功利主義はテクノロジーとの相性がよいというのが吉川の見立てだ。

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人間についてのすべてがあいまいな局面を理解することは、きわめて困難であった。プレイフルな、無数のことがらについてゲームの規則(ルール)を明示化することは不可能に思われていた。

しかし、人工知能関連技術、テクノロジーによる自然科学化は、暗黙のルールを明示化し、技術的な制約を徐々に取り払いつつある。そしてぼくたちが抽象化されて数値化されることによって、人間の心を喪失することで、テクノロジーによる社会課題解決は一気に加速する。

この展望は正しいのだろうか。「トロッコ問題」、「臓器くじ」の功利主義の回答は、多くの人びとの道徳的な直観に抵触することが知られている。功利主義の理念に賛同しながら、それがもたらす帰結を受け入れがたいと感じたとき、人は道徳的ジレンマ状況に陥る。

そして功利主義の功利計算、効用関数の設定で論争が始まると吉川は指摘する。快楽を基準とするのか選好充足を基準とするのか、 行為を対象とするのか規則を対象とするのか、等々だ。それどころか邪悪な用途にさえ利用することができる。

20世紀におけるナチスホロコーストソ連時代の大粛清は、理性が残虐性を引き起こしたトロッコ問題のように思える。当時のドイツは、民主主義もあって、世界的な法学者も哲学者もそろっていた。だがその知性が、残酷なロジックを作り上げた。

官僚制という名のゲームの規則(ルール)で、世界を徹底的に優しくしたい。ぼくたちは人間の心がもつ気まぐれ(プレイフル)な神々を怖れている。共感できるものを守り、共感できないものを殺す「動物的本能」が、残酷さを引き起こすと考えている。そのために動物的な共感能力は、理性で抑えるべきだと前提に考えている。

だが、理性が残酷な帰結を起こしている。その時に、この帰結を制御するには、ロジックでは立ち行かなくなっている。この帰結を制御するための、動物的な共感による対抗はありえないだろうか。

動物的、身体的共感は限りなくランダムである。この偶然性は、自分の味方、子どもを守るのは、たまたま近くにいるからといったものである。近くにいるから守る。特に哺乳類はそれが多い。憐れみ、誤作動、エラーの共感で、近くにいるものを何でも守ってしまう。犬とブタの親子が生まれるように。

理性が生み出す残酷な帰結に、偶然性のある共感能力がセーフティネットとして生かせるだろうか。これまでは、動物的な共感能力こそが残酷を生み出すと考えられてきたが、憐れみや動物的な共感が、攻撃性を抑えるのではないか。

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フランスの哲学者ジャン・ジャック・ルソーの1755年の著作にも「憐れみ」は論じられている。苦しんでいる人々を見て、よく考えずに助けに向かわせてしまうものであり、各個人の自己愛や利害のコスパ計算などを和らげ、人類種全体の相互依存に協力する。この働きが憐れみだ。

憐れみで、個人が偶発的にだれかと連帯しようとする。それはうまくいかずに失敗する。あちこちでうまくいかず、不平等も生んでしまうかもしれない。あいまいだし、気まぐれで、偶然的で非合理である。これは功利主義と真っ向から対立する。最大多数の最大幸福どころか、憐れみは、偶然に、えこひいきをする。

憐れみや動物的本能が、官僚制という名のテクノキリストに対抗できるのだろうか。

ここで、東浩紀が2017年の『ゲンロン0』で考察した「第5章 家族」を導入する。憐れみが、功利主義で基礎づけられない利他行動、贈与を生み出すとした家族の哲学の草稿だ。

家族の哲学は、東も注意書きしたように、お父さんとお母さんを尊敬しようとか、子どもを産もうとか、兄弟は仲良くしようとか、そのたぐいの道徳的な議論ではない。伝統的家族の復興や、愛国主義の特殊なイデオロギーを語ろうとしているわけではない。

功利主義を用いて、倫理的にも直感的にも「決定不可能性」を避けようとする時代(官僚制)において、家族の概念が、理性の残酷さを制御できるのではないか。家族の概念が、決定不可能な境界画定を引き受ける、セーフティネットになる可能性を考える。

「家族の概念」について注目したいのは、固有名が立つことによる、家族の拡張性である。固有名(オブジェクト)が立つとは、日本におけるイエ社会や、高級ブランドをイメージしてもらうのがよいだろう。

家族とは性と生殖だけで定義可能な存在ではない。イエ社会であれば、血縁よりも経済的な共同性が中心で(養子縁組が可能なように)、中身が変わっても成立するダイナミズムさがある。固有名(オブジェクト)が立っていれば、変更可能、修正可能、交換可能、反復可能なのが家族であると東は考える。

家族は不合理な境界線でかたち作られている。実在とは確定しているものだ、と定義するのであれば、家族の単位は存在するのだろうか。親子や夫婦、兄弟は存在するだろう。もっと合理的に考えると世界と個人しか存在しないかもしれない。

それでも家族は実在している。親子や夫婦、兄弟、犬や猫が集まることで(確定記述の束によって)、家族の固有名が立つ。さらに、家族は絶対的で運命的で一生に一度(変更不可能)と思ったとしても、交換(および拡張、反復)することができる。

家族形成はとてもあいまいに、偶然に境界を確定する。家族とは偶然の存在である。私的な情愛がときに、原則や手続き(官僚制)を超える。養子縁組にしても、必ずしもイエの存続のためだけに(功利計算で)行われるものではない。赤ちゃんを迎える特別養子縁組、終戦直後の日本で孤児になった子どもを迎えることにした人たちが今も昔もそれを教えてくれる。

だから、もともと仲間だと思っているから、家族になるのではない。ぼくたちは偶然(隣にいて)、憐みてから、仲間になって家族になる。家族の輪郭は、功利主義的に集住と財産で決まることもあるだろう。だが私的な情愛、憐みや動物的な共感が、功利計算に基礎づけられなかった子どもたちを、家族にすると決めることができるのだろう。

さいごに、この家族の哲学から、寄付とNPO活動について論じたい。家族的なものを支えているのは贈与(あるいは寄付)の仕組みであるとぼくは考えている。

そして寄付や贈与が、官僚制に支配され、功利的になり、固有名がはぎ取られてしまう危惧を表明する。時代に合わない老害的な思考だととらえてもらってもかまわない。これから論じる寄付について、この世界の定義ではない。家族の哲学から着想を得た1つの争点を提示する。

寄付とは家族的連帯である。寄付を募る、あるいは受け取るNPO団体は、市民参画という名の「家族的なもの」が核になると考える。

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寄付(もしくは贈与)は、偶然性であり、暴力的である。2番目、3番目の活動は選ばれない。誰かを助けること、誰かを助けないことを、偶然性が決めてしまうのは非合理的で、ナンセンスだと、批判があるかもしれない。それでも、テレビ番組で偶然に知った活動、学生時代の知人が頑張っている活動、過去の自分と似ている境遇を応援できる活動、たまたま出会ったひとを助けたいと思う「ひいき」が寄付を支えている。

寄付の偶然性、あいまいに意思決定をする非合理さは、家族の概念にとても近いのではないだろうか。あらためて家族の拡張性、加えて強制性に注目し、寄付について考えてみたい。

まずは、家族の概念の強制性について。家族は、自由意志ではそう簡単に入退出ができない集団であり、同時に強い「感情」に支えられている集団である。家族なるものには、合理的な判断を超えた強制力がある。面倒な関係やコミュニケーションが生まれる。

現在のNPO活動と自由意志の関係はどうだろうか。東が指摘しているように、冷戦後の左翼は、ばらばらな個人が自由意志でつくる新しい連帯に期待を寄せてきた。けれども、そのような連帯は同じ理由ですぐに崩壊する。自由意志で入った集団からは、自由意志ですぐに出ることができる。それでは週末の趣味のサークルとかわらず、まともなNPO活動、市民運動の基盤にはならない。

家族の結びつきはそのような単純なものではない。たいていのひとは、生まれた瞬間に特定の家族に加入させられる。そこに自由意志はない。そしてそこからの脱出はむずかしい。

この強制性は一般には否定的に理解されるが、裏返せば、むしろそれがあるからこそ家族は政治的アイデンティティの候補になりえるのだともいえる。国家も階級も、同じように強制性があった(とみなされた)からこそ、政治思想を支えるアイデンティティになったのであると東は考えた。

ぼくたちは寄付する人、ボランティア、現場で働く職員を、家族的な強制性で見つめることを避けているのではないか。働き方、関わり方の多様性を尊重している。功利主義的なパートナーシップは急速に進み、仕組み化やルール化が進んでいる。しかし市民参画という面倒な強制性を隅に追いやってはいないだろうか。そして市民参画が機能しないと成り立たないNPO活動は、功利的な計算によるパートナーシップからこぼれ落ちてはいないだろうか。

少しマイルドなカルトのようになってきたが、続いて家族の拡張性について、ヒトラーと同年代のオーストリアの哲学者ウィトゲンシュタインの「家族的類似性」の概念から考えてみたい。

家族の拡張性により、境界の確定がむずかしいというのは、言い換えれば、家族の共通性を取り出すのがむずかしいということである。

あるグループがある。メンバー全員の共通点は特にない。ただ、ひとりひとりを見るとたがいにそれぞれ異なった共通点を持っている。だからグループとしては、なんとなくまとまりを構成している。ウィトゲンシュタインは、家族とはまさにそのようなものだと主張した。

ウィトゲンシュタインは、人間のコミュニケーション一般の本質について「家族的類似性」という言葉で説明できるという結論を提案している。

この家族的類似性によって、親子や夫婦、兄弟(確定記述の束)が集まり、固有名が立つのではないだろうか。そしてこの類似性の発見は、憐れみや動物的な共感によって生れるのではないだろうか。

というのは、犬や猫のようなペットも家族と見なされることが多いからである。最近では、お掃除ロボットのルンバに名前を付けて、ルンバが掃除しやすい物件に引っ越すこともあるようだ。むろん、犬や猫、ルンバは法的には家族ではない。

ここに、家族の概念の拡張性が極端なかたちで現れていると東は指摘する。家族のメンバーシップは私的な情愛だけで支えることが可能なので、ときに種の壁すら越えてしまう。それは憐れみが引き起こしたエラー、偶然性(人間のうちにあるプレイフルな神々)ではないだろうか。しかもそこで興味深いのは、「家族的なるもの」の感覚を基盤にすると、ときに「類似性」の感覚ですら種の壁を越えてしまうということだ。ぼくたちはときおり、飼い主と犬の顔が「似ている」と感じないだろうか?しかしそこでは何が似ているのだろうか?

もちろん犬や猫、ルンバに寄付してもらうことは難しいかもしれないが、家族になりたいと寄付者やボランティア、現場の職員に思うことはできているだろうか。家族のようなコミュニケーションはできているだろうか。

むしろ、寄付獲得戦略を考える際にペルソナマーケティングで抽象化や数値化し、ドナーピラミッドでクラス分けをして、功利的なコミュニケーションをしているのではないだろうか。ぼくたちが寄付者と積み重ねているコミュニケーションとはなんだろうか。家族的なコミュニケーションとは、インタラクティブなものではないだろうか。

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SNSリスティング広告で映像や文章を拡散させることを「共感マーケティング」と呼ぶことがあるかもしれない。しかしこれは、憐れみや本能的な共感とは遠いとぼくは考える。

FacebookTwitter の世界では、合理的な命題、論理的な命題が拡散している。けれども感情は、人々に拡散していない。SNSは、最初から連鎖すると予定されている人、最初から近い考えを持っている人、その人たちの感情を強化しているだけのツールになっている。感情が連鎖していると思い込んでいる世界(ソーシャルネットワーク)を、共感と呼んでいるだけにすぎない。

社会とは何か。社会とは模倣である。と言ったのはフランスの社会心理学者 カブリエル・タルドの1890年の著作だった。

タルドは、社会集団を、現時点で相互に模倣しあっている人々の集団と定義した。あるいは現時点で模倣しあっていなくても、かつて同一のモデルを模倣したことによって共通の特徴をそなえるようになり、互いに類似するようになった人々の集団のことを指した。例えば、思想や趣味、共通の起源をもつ言語などの特徴だ。

社会集団の特徴や観念をてっとり早く展開するためには、その存在は自分の均質なコピーを数多く作り出すだけで十分であった。しかし、社会集団が何よりも望んでいるのは伝播することであって、組織化することではない。組織化はひとつの手段でしかない。伝播すなわち生殖的反復あるいは模倣的反復こそがその目的なのであると彼は示した。

社会集団として、大衆が軽信的な(何事をもすぐに信じ、しかも同時に何事をも信じていない)態度であることは、最高度の催眠状態にあって、何よりもまず模倣的であると指摘した。この模倣的反復が、SNSマーケティング、ばらばらな個人が自由意志でつくる新しい連帯と相性が良いのは言うまでもないだろう。

模倣的反復と催眠がつくる社会集団について、タルドの議論を具体的に掘り下げていく。自発的に思考することは、他人の考えにもとづいて思考することにくらべると、つねに大きな疲労を与える。それと同じように、活気のある環境や強度が大きくて変化の多い社会の中で生活し、いつも新しい舞台やコンサート、会話、読書といった事物にさらされている人は、しだいに知的努力をまったくしなくなってしまうだろう。

それとともに、その人の精神は過度の刺激を求めるようになり、催眠状態へと入っていく。街の活動や喧噪、店のショーウィンドーといったものは、人々の精神を抑制のない衝動的な興奮へと導き、催眠術を施されたのと同じ効果をもたらす。タルドは、刺激の強い模倣的反復が都市特有の催眠環境であると指摘した。

タルドの時代は都市生活がこのような精神状態をつくった。そして今日のぼくたちは、インターネットやSNSで、画像広告や動画広告が強制的に目に入る環境にさらされており、都市特有の問題でなくなりつつある。

さらに、都市生活は社会生活を極限まで凝縮したものだとタルドは言う。都市生活(あるいはSNS)で催眠状態にあるひとりの人間が、彼を催眠にかけるために用いられたメディアを模倣するあまり、ついには彼自身がメディアとなって第三者に催眠作用を及ぼす。さらにその第三者も、同じように前者を模倣し、その連鎖が果てしなくつづいていく。社会生活とは、まさにこのようなものであろうと。

最初に定義づけた「社会集団とは相互に模倣しあっている人々」のような相互的催眠作用は例外にすぎず、人々自身がモデルとなって、催眠作用が次々と滝のように連鎖していくのが一般的であると彼は指摘する。

通常、自然に威信を備えるようになったひとりの人間が衝撃を与え、やがて多くの人々が彼を模倣し、あらゆる分野にその模倣がおよぶ。ときには彼の威信(マイクロインフルエンサー)さえも利用して、その下にいる無数の人びとに影響を与えることもあると。

だから 5万RT(リツイート)は、感情を変えているわけではない。憐れみや真実を知ったことによる共感による行動ではなく、予定されていた5万人の中にあった軽信的で、功利的なものを強化しているだけだ。「5万人の自尊心の強化による行動」が 5万RT だろう。

現時点のSNS環境(とそれを使う人間)ではインタラクティブなコミュニケーションは難しい。インタラクティブで家族的な(プライベートな)コミュニケーションは外からはわからず(セックスのように)、本来は複製不可能なはずである。だからインタラクティビティを強引に複製可能にするとポルノになる。

政治的なコミュニケーション、NPO活動は限りなくインタラクティブなものでないだろうか。これを複製可能にしたのがヘイトだ。ロヒンギャに対する民族浄化をはじめとした、 Facebook を利用する組織化されたヘイト犯罪が頻繁にニュースになっている。ポスト・トゥルース時代において、情動を満たす統治手法として、このプロバガンダの生活者、消費者への応用が(密かに寄付獲得戦略にも)注目を集めているだろう。一部の人たちの快楽を満たす、強化するだけの模倣の催眠のコミュニケーションとして。

言うなれば、5万RTを目指す寄付獲得マーケティングは、5万人の自尊心を論理命題で強化した功利主義的なコミュニケーションであって、本論で扱ってきた憐れみや家族的なものに基礎づけられた寄付の本質ではない。あるいはNPOの核となる市民参画を装って均一なコピー品を数多く作る、インターネットミームだと訴えたい。

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以上が、ぼくの「家族的な寄付」への信仰告白である。

しかし世界は、徹底した功利主義で寄付先を決めて、利他的な行動も功利計算に基礎づけられていくであろう。

徹底した功利主義で寄付の義務化を提案したのが、オーストラリアの倫理学者 ピーター・シンガーによる2009年の著作であった。先進国の住民は、貧困国の飢餓救済のために、年間所得の数パーセントを寄付する倫理的義務があるとシンガーは考えた。より豊かな人々には、むろんより高率の寄付義務を課すべきだと。

シンガーの寄付の義務化を実行するには「最大多数の最大幸福」を実証する数値的指針が必要で、「社会的インパクト評価」と呼ばれるものはそれを基礎づける統計的なデータになるだろう。

先進国の若い研究者や企業家を中心にムーブメントになりつつあるのが〈効果的な利他主義〉だ。運動の中心人物であるミレニアル世代の英国の倫理学者 ウィリアム・マッカスキルは、2016年の著作で科学的なアプローチによる寄付先の選択を提案した。

彼の著作への推薦文には、シンガーはもちろん、世界最大の慈善基金団体「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」や、社会貢献に並々ならぬ情熱を傾ける企業 Linkedin の共同創設者 リード・ホフマン、Skype の共同創設者 ジャン・タリンなどからの賛辞に溢れている。

マッカスキルは、先進国の緊急災害(例えば2011年の東日本大震災)よりも、貧困国の保健衛生に寄付をするほうが1ドル当たりの影響力が大きいと、エビデンスに基づく社会貢献団体の選択方法を展開する。一時の感情に流されるのではなく、理性的に寄付するべきであると。彼は「質調整生存年(QALY)」の尺度を用いて、誰かを助けること、誰かを助けないことは科学的に判断できるとした。

この流れは止まらないだろう。そして、爆発的な計算能力をもつAIが、蓄積された統計データに基礎づけられて、深層学習(ディープラーニング)で、社会的インパクトが出るであろうと思われる活動の最適解を提示する世界が到来する。

アルゴリズム化はどんどん進み、公共施策の意思決定、どの社会貢献団体に寄付・投資をするかを科学的に判断できるようになる。対話は必要とせず、数値情報だけで寄付が行われる。

そのためには、官僚制という名のゲームの規則(ルール)が整備される必要がある。そして官僚制の仕事は一層求められるだろう。

アルゴリズムが「父」になった統計的超自我(あるいはテクノキリスト)に従えば、ぼくたちは人間の偶然性、えこひいきなどを避けることができる。利他性も功利主義のおかげで、徹底的に優しい世界に到達できる。人間の心を擁護する言葉など何処にあるだろうか。

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「意識のない知性」が寄付をするとはどういうことか(ありえるのか)。本論の構想段階では、これが中心テーマだった。「AI(人工知能)」が寄付をする利他性に考えを巡らしていた。

調べていく中で、あり得たかもしれない生命を対象にする「ALife(人工生命)」に出会った。コンピュータ上でシミュレートすることにより、生命の本質に迫る研究だ。

人間と人工知能(人工生命)の違いは何か。そこから見えてくる人間性の本質とは何か。この議論と同様に、寄付や贈与とはそもそもどういうことなのか。ぼくにとっての寄付をあらためて考えた。

官僚制が支える、充分に高度化された社会システムの中で、未来の人間は心を喪失し、意識のない知性として寄付をするとしたら、それは功利計算にもとづいた寄付や利他行動であろう。

このあり得るかもしれない未来の生命(意識のない知性)を通じて、今日の寄付と利他行動を見つめ直すことができた。それが家族的な寄付というこの草稿だ。

家族的な寄付が、時代に逆らっており、不利であることにはかわりがない。テクノキリストによる官僚制は、ぼくたちを抽象化、数値化する。ぼくたちの固有名を剥奪して、ユートピアを目指し、国家と資本主義は運営される。

未来の子どもたちには、自分で寄付先を選んでいたなんて信じられない!非合理で異質だと言われてしまうかもしれないが、それでもぼくたちは家族的な寄付をしていたのだ。

今日のぼくたちは、偶然(隣にいて)、憐みてから、仲間になって家族になった。そこから寄付や市民参画が始まった。私的な情愛、憐みや動物的な共感が、功利計算に基礎づけられなかった子どもたちを、家族にすると決めることができていたのだ。そのように固有名はアーカイブ化され、ぼくたちから遠ざかり、いつか引き戻されるのを夢見るのだろう。

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