小さな flaneur のテキスト

1985年4月4日、東京生まれ。

社会的インパクト評価をめぐる批判から、思弁的実在論による捉え直しへ

社会的インパクト評価は科学的な知をもとめる体裁で、宗教的な物語を語っているに過ぎないのか。そしてそれを非難する者たちも不在の真理にたどりつこうとしているかは不明である。願わくは、物語が感染と模倣を繰り返し、短絡的な欲望で満ちた世界で偶然に、真理の登場のあらんことを。

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伊藤計劃によるSF小説『ハーモニー』を読んでいた。権力が管理制御する「生命至上主義」の社会を描いた作品で、人々の身体を「公共的身体」とみなす世界観だ。

身体を常にモニタリングするデバイス「WatchMe」、病気を予防する投薬システム「メディケア」、理想体型のために食事や生活様式を提案する仕事「ライフデザイナー」を、すべての人々が当然のように使っている。健康のスコアリング情報をリアルタイムで確認できるのだ。

2018年のぼくらの世界でも、医療費削減を掲げない自治体は無い。政策の実行判断、事業者選定において医療費と住民人口の掛け算が、提示される健康改善のエビデンスになる。集めた大量の健康データは、計算能力の高い機械で処理されることでアルゴリズム化し、コストパフォーマンスの高い、公共的身体の管理を目指せそうだ。

小説『ハーモニー』の世界は、2019年に核戦争・感染症で世界が包まれた「大災禍」が発生したことがきっかけで、人々の身体に「WatchMe」がインストールされた。ぼくらの現実のインフラは未熟だけれども、ぼくがはじめて本書を読んだ10年前(2009年)と比べて、公共的身体の価値観は違和感なく現実に向かっている。

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アルゴリズム化への欲望は医療や健康コストだけでなく、社会貢献や社会課題に取り組む分野で顕著に現れている。

例えばぼくらは寄付をするときに迷う。この活動は適切に資金を活用しているだろうか、寄付するからには投資対効果の高い活動を選びたい、格付けやスコアリング情報はないのだろうか、など。適正に使ってくれる活動を選び、寄付の精度を上げることが、社会課題の解決の速度を上げるかもしれないと思うからだ。

世界の億万長者の寄付や基金は「インパクト」を追っている。ビル・ゲイツポール・アレン、ジェフ・スコール、マイケル・ブルームバーグといった富豪たちは、感染症、難民援助、貧困対策、地球温暖化対策、マイノリティー支援に私財を投じて、最大限のインパクトを生む集中投下の寄付を試みている。

これに応えるように、NPONGOなどの社会貢献に取り組む団体やソーシャルビジネスは、活動や事業の成果を世の中に示そうとしている。社会的インパクトと呼ばれ、寄付や投資を促進することが狙いだ。それを可視化する手法である「社会的インパクト評価」が注目を集めている。

資金提供者、貸し手が事業や活動による社会的な価値の「見える化」を求めている。米国、英国をはじめとする国際的な潮流で、これが日本にも上陸しているのだ。

経済合理性もあり、コストパフォーマンスが良い活動を選ぶ。この流れに何も問題ないだろうと思いきや、成果が出る活動に資金が集まれば、社会課題は解決されるのだろうかと声が上がっている。

合理的に社会課題の解決を加速させたい人たちと、地べたの活動の排除を不安視する人たちとの対立だ。

社会的インパクト評価に反対する理由は沢山出てくる。

資金提供者の権力下の行動原理になる。成果主義であり、成果が出やすい活動、成果が出やすい人を助ける傾向になる。予算が付きづらいボランタリーな活動、深刻にもかかわらず当事者の量が少ない活動、提供した資金に比べて投資効果が出づらい活動を排除するロジックになる。自己評価でデータ収集・測定を行う場合、恣意的に結果を改ざんするリスクがある。これまでのインパクト評価事例が評価とは到底言えないエビデンス主義である。

全ての視点がもっともだと思う。それでも社会的インパクト評価は、「社会貢献活動」の概念を完全に書き換えるかもしれない。成果が測れない活動、すぐに成果が出せない活動自体が問題視される。それは資金提供するに値しないと切り捨てられるからだ。

恣意的な指標とデータにもとづいたエビデンス主義が幅を利かせて、見える化、見せる化がうまくいかない活動や事業が排除されてしまうのは避けたいとぼくも考える。資金提供者の権力に擦り寄ってしまうこともジレンマだろう。権力側に、活動と受益者を人質として晒していることに思えてしまうからだ。

成果主義の浸透は、個人寄付にも影響するだろう。大げさに言えば、インパクトを出さないことは、寄付するに値しない。社会貢献の「枠外」にされてしまうパラダイムシフトだ。

それでも、ぼくは社会的インパクト評価をめぐる対立軸を乗り越えて、真理にたどりつくことができないだろうかと考える。合理的な世界観に憧れたくもあり、功利主義に基礎づけられない「憐れみ」から生まれる連帯も信じたいからだ。

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2018年5月「 ICTを活用した社会的インパクト評価ツールに関する先行事例調査」が内閣府で公開されていた。欧米、東アジアでは50社以上がこのテーマでITソリューション提供をしているという調査結果だ。

目標達成の手段とプロセスを管理するツール。同業他社のデータ比較を通じてインパクト拡大につなげるツール。約30,000件の評価項目と指標を選択できるツール。ICTツールによって、犯罪、教育、雇用、ヘルスケア等の多様な分野の社会サービスの費用が地域ごとにデータが蓄積、一覧化されていく。

同じく5月に発行された「EU一般データ保護規則GDPR )」は、個人情報の公共財化の推進を目指している。シリコンバレーの大企業に独占蒐集されたプライバシーの所有権を、市民社会に取り戻そうとする流れで、ソーシャルネットワーク自体を公共事業化する見取り図らしい。

2018年4月、米国で NPOとテクノロジーをテーマにした3日間の祭典「 Nonprofit Technology Conference 」が開催された。100を超えるセッションのなかで、主催者が掲げた特別セッションのテーマが「デジタルインクルージョン」だった。

デジタルインクルージョンは、スマートフォンやパソコンを使いこなせず、webサイト、SNSサービスにアクセスできず、地域の最新情報を受け取れていない若者や高齢者をサポートする取り組みだ。

ちょうど参加された方がいたので、どんな内容だったかを聞いてみると、地域コミュニティで活動するNPOが、若者や高齢者をサポートするプログラムの事例や、具体的なノウハウを紹介する内容だったようだ。

webサービスが大好きな人だけでなく、ITリテラシーが高くない人々もサインアップさせて、全ての人類からデータが集まり、そのデータを国際的な連帯組織が管理し、公共サービスの費用と効果がどんどん一覧化されていく。その恩恵を受けて、ぼくら自身もスコアリングされ、『ハーモニー』的な生命至上主義の世界を、個々人はすんなり受け入れていくのだろう。幸福になるイメージを抱きながら。

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これまでの寄付もしくは贈与は、偶然性であり、暴力的であった。テレビ番組で偶然に知った活動、学生時代の知人が頑張っている活動、生まれ育ったふるさとを応援できる活動など。地縁、血縁、たまたま出会ったひとを助けたいと思う「ひいき」が寄付を支えていた。寄付する人にとって、二番目、三番目になってしまった活動は選ばれない。

誰かを助けることと、誰かを助けないことを、偶然性が決めてしまうのは非合理的で、ナンセンスだと考えたことはないだろうか。この偶然性に真っ向からぶつかるのが、功利主義の「最大多数の最大幸福」である。

徹底した功利主義で寄付の義務化を提案したのが、オーストラリアの倫理学者 ピーター・シンガーによる2009年の著作であった。先進国の住民は、貧困国の飢餓救済のために、年間所得の数パーセントを寄付する倫理的義務があるとシンガーは考えた。より豊かな人々には、むろんより高率の寄付義務を課すべきだと。

シンガーの寄付の義務化を実行するには「最大多数の最大幸福」を実証する数値的指針が必要で、社会的インパクト評価はそれを基礎づける統計的なデータになる。

爆発的な計算能力をもつAIが、蓄積された統計データに基礎づけられて、深層学習(ディープラーニング)で、社会的インパクトが出るであろうと思われる活動の最適解を提示する。アルゴリズム化はどんどん進み、公共施策の意思決定、どの社会貢献団体に寄付・投資をするかを科学的に判断できるようになる。

誰を助けるのが正解なのか。これを論理的に突き詰めても、絶対的な正しさの答えが出ないし、そんな真理はいつまでたっても現われないことに、ぼくらはもう我慢できない。科学的で統計的に正しい判断はますます選ばれ、寄付に対してぼくらは迷うことが少なくなるだろう。

対話は必要とせず、数値情報だけで寄付が行われる。それはもはや寄付でなく法制度化された税金なのかもしれない。統計的正しさへの警戒心は薄れていき、実証できる科学的データの蓄積で、世界は徹底的に優しくなっていく。

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社会的インパクト評価は、エビデンス主義、もしくは科学的な統計的正しさを目指している。それでは、科学的な知を求める、統計的正しさとはなんだろうか。それは、過去のデータで基礎づけて、計算能力で答えを出そうとする「AIのパターン認識」だと言えるかもしれない。

AIは、人間から教えられることなく、みずからでパターン群の分類を実行して答えを出せるようになった。教師なし学習と呼ばれるものだ。例えば、約1,000万の Youtube 動画から「猫の顔」をAIが認識できたグーグル社の実験が有名だろう。これを誤解してはいけないのが、AIは猫の顔をパターン分類できるようになっただけで、猫の概念を把握できたわけではない。

統計的正しさとは、絶対概念の把握ではない。人間がたどりつけていない論理的な正しさ、真理を掴んでいるわけではないのだ。つまりAIだって圧倒的なデータ量と計算能力で、統計的に正しさが出せるだけに過ぎない。パターン認識だから間違えているかもしれない。ニュースの天気予報のようなものだ。

統計的正しさを警戒する、社会的インパクト評価反対派の声を突き詰めていくと、論理的正しさ、絶対的な真理を志向していないだろうか。

NPOやボランティアは、活動目的に売り上げではなく、必ず「ミッション mission 」を掲げる。経営・運営判断に、活動の正しさを論理的に求めたい。

NPO = 宗教 の印象がある背景も、ミッションを掲げているからかもしれない。歴史的に、ボランタリーな活動の多くは、明治維新以後に解禁となったキリスト教宣教師や信徒によって担われてきた。もちろん、仏教その他の宗教者や、自由民権思想を背景としたものもある。江戸時代の、庄屋・名主を中心とした村落自治・相互扶助の考え方を基盤にした活動もある。

社会貢献活動は、統計的正しさや経済合理性だけでは十分とみなせない。ミッションを掲げるNPOは神が不在の世界において、論理的な正しさや絶対的な真理を求めている。社会的インパクト評価をめぐる論争において、統計的正しさでアルゴリズムを欲望する活動と、論理的正しさで不在の神を追求する活動の対立構造が生まれている。

この統計的正しさと論理的正しさの対立構造について、日本の情報工学西垣通が2018年に発表した著作が同じように論じてくれている。

西垣によれば、現代社会における科学技術と哲学のあいだの亀裂について、致命的な問題として日常的に顕在化することはないが、倫理や責任など、人間の価値観に関わる分野ではこれが深刻となると示している。

例えば天文学をはじめ通常の理系研究分野では、収集されたデータを数学的ルールで処理することが、世界を客観的に認知した正しい判断だと想定される。物理的、科学的な事象の測定作業や法則の適用妥当性も含め、専門的議論の中で特に客観性が重視されることに違和感はないだろう。

しかし、この議論は人間社会に関わる分野、例えばAIについては成立しないと西垣は指摘する。倫理や責任などの人間の価値観がからんでくるAIの分野では、しばしば観察者である専門的研究者の「主観性」が焦点となってくる。理系研究分野では、観察し記述する者の主観性を考慮することなく、客観的に議論を進め、結論を得ることができているにもかかわらずだ。

倫理や責任にかかわる分野では人間の主観を度外視して、事物について正しく語ることはできない。これは、19世紀のイマヌエル・カントから続いているドイツ観念論によって、物理法則をふくめ、人間の認識を介することではじめて世界が実在するとみなすのだ。つまり「人間の知性」を前提にしている。

だとすれば、近代哲学の主流の考え方からすると、AIによる統計的な正しさ、機械が導き出した答えを支持することは難しいのではないだろうか。「シンギュラリティ」で有名になったレイ・カーツワイルのような人間を超える「普遍的知性」の議論も、軽々しく正当性を与えることができないのだ。

カント的な世界認識を前提にした人間社会において論理的な正しさは、AIのような科学的な知を求める統計的正しさの「普遍的知性」に反発する。それは素朴な科学の実在論にすぎないのだ。

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にもかかわらず、日常生活や意思決定を支えているのは、明らかに科学的な知ではないだろうか。統計的な正しさと論理的な正しさに、いわば理系、文系のような議論に、ぼくらは悩まされている。

しかし、統計的正しさと論理的正しさ、科学的な知への欲望と不在の神の欲望、カントが生み出した対立軸を、最新の哲学はお互いを基礎づけようとしている。

ぼくらは漠然とだが、世界や宇宙で起こる出来事には必然性などなく、偶然に事象が発生すると考えるのではないだろうか。人生は予測がつかないことだらけだと捉えるのが一般的だろう。すべては偶然であると。

また、すべてが偶然だと割り切ってぼくらは生活していないし、近代的な知性、自然科学的な世界観の立場にとって、それは相容れないだろう。世界の謎がすべて解明されていないにせよ、世界の物理法則は数理的に記述でき、計算やシミュレーションで生起する事象は統計的に予測できる。普遍の法則を実証できる論理モデルはあるはずであると。AIに期待される普遍的知性もこの世界観からきている。

普遍的知性の世界観を、素朴な科学の実在論にすぎないと切り捨てるカント的な世界認識を前提に、最新の哲学「思弁的実在論 Speculative realism 」はこの亀裂にアプローチを試みている。

フランスの哲学者 カンタン・メイヤースは2006年の著作で、科学的な知を受けて、哲学を基礎づけようとした。人間の主観と関わりなく、世界には絶対的な事実があり、しかもその事実の出現は「偶然性 contingence 」であると主張した。

世界がこうしてあるのは理由も必然もないが、絶対的な事実はある。数理的な記述で実在する「モノ」に直接アクセスができると。人間不在の世界をひとつの思考実験として、人類誕生以前の「祖先以前性」を導入し、人間の主観の外に出ることの必要性を示した。同じく思弁的実在論を展開する、メイヤースの著作を訳した英国の哲学者 レイ・ブラシエは「絶滅」で人間不在の世界を示している。

米国の哲学者 グレアム・ハーマンは、事実は絶対的に独立しており、人間の理解の外にあり、事物同士は表面的につながっているが、その本質は汲み尽くせなく引きこもっている(退隠 withdraw )とする、オブジェクト指向存在論を主張した。

ハーマンは、人間が事物を汲み尽くせないことについて、マルティン・ハイデッガーによる「道具分析」の独自解釈を展開した。ハンマー(金槌・木槌)が問題なく機能しているときは、人間はハンマーを意識しないが、ハンマーが壊れると素材が何で構成されているかを意識しはじめる。オブジェクトの性質は無限に引きこもっており、絶対的に独立している。さらに人間が認識しきれないオブジェクトで世界は動いており、人間が予測できない大きな力も隠れていると。

人間の理解の外にある隠れている事実とは何か。

2011年の東日本大震災以降、原発が機能しているときは、原発の怖さを意識しづらいと誰もが気づいたことだろう。人間による人工物ならコントロールできるはずだ、二酸化炭素の排出による温暖化の海面上昇なら排出量でマネジメントできると考えていたが、世界には人間が汲み尽くせない事実があった。原発津波で壊れた時、ハーマンの道具分析の独自解釈のように予測できない事実があらわれた。完全に人間の主観、人工物だけで完結した世界などはなく、絶対的な事実、真理は圧倒的な力で偶然にあらわれる。その前で人間は脆弱である。

数学的に記述できる絶対的な事実はあるが、一寸先は闇、事実には「偶然性 contingence 」が隠れているという思弁的実在論は、ぼくらの直感とも一致するだろう。

いずれにせよ、ぼくらは世界が論理的正しさの秩序で成り立っていると思っていない。世界は有限でなく、無限に退隠している。そしてそこには不在の神がいるかのように思えてしまう。

思弁的実在論は、人間の主観の外で事実に直接アクセスできるならば、科学を素朴実在論と切り捨てず、統計的正しさと論理的正しさの亀裂を埋めることができるのではないかと主張する。

そうなるとぼくらは絶対的な真理を欲しがり、人間を超えるAIの知性、シンギュラリティ仮説のような科学的な知で、不在の神を欲望する。

この点について西垣は、フランスの哲学者 ジャン = ガブリエル・ガナシアの2017年の著書を参照し、シンギュラリティ仮説が正確な「論理(ロゴス)」 ではなく、「物語(ミュトス)」によって人々を説得しようとしていると警告する。

カーツワイルが依拠する「収穫加速の法則 LOAR 」は、「法則」とは名ばかりで、単にムーアの経験則などを都合よく拡大解釈したものにすぎない。表面的には形式論理と実証を重んじる自然科学的議論の装いをしているが、精密な論理命題をつないでいく知的論証からはかけ離れている。トランスヒューマニズム(超人間主義)は科学的知ですらないと。

これは社会的インパクト評価の実践に対する警鐘である。評価のフレームワーク「ロジックモデル」や「セオリーオブチェンジ」は、成果指標の設定、関係者との合意形成として活用されるため、論理より物語の魅力によって人々を惹きつける罠にはまる可能性が高い。

しかし、罠が見えているのであれば回避できる可能性もある。「物語(ミュトス)」で「論理(ロゴス)」の価値を阻もうとする障害は、逆に、社会的インパクト評価がどのようなものであるべきか議論を進めることができる。思弁的実在論による捉え直しもその可能性なのだ。

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社会的判断の軽率なアルゴリズム化、物語化は巨大なリスクをはらむものだと、どんなに警鐘を鳴らしても、価値観のパラダイムシフトは止まらない可能性が高いし、AIも社会的インパクト評価も普及が進んでいくだろう。

ITジャーナリスト ケヴィン・ケリーが2016年に発表した著作は、「クラウドAIネット」が実現する理想の世界を示唆している。これまで分析されなかった様々なビッグデータをIoT技術が収集し、アルゴリズム化することで、人間をしのぐ知を実現して大きな社会的インパクトをもたらすであろうと。車の自動運転がその代表例で、高齢者ドライバーの運転はより安全になるかもしれない。

科学的な知を求めることで、論理的な正しさが見つかりはじめている。実際に将棋の若手棋士は、従来の人間棋士同士の研究会に加えて、AI棋士を相手にも研究を重ね、新しい定石の発見、将棋の真理に近づこうとしている。論理的に突き詰めてきた人間の主観だけではたどり着けなかった一手に、過去の膨大なデータに基礎づけることで、絶対的な真理にアクセスしかけているのだ。

人間と機械のアルゴリズムのタッグによる、人間の知の「増幅」に反対する理由はないと思う。同様に、社会的インパクト評価のアルゴリズム化への欲望について汲みつくせていない事実、退隠している事実が見出せる可能性があるのではないか。

だとすれば、社会的インパクト評価も、エビデンス主義や資金提供の権力への擦り寄りだと切り捨てず、統計的な正しさを追及し続けることで、社会貢献活動の絶対的な真理に、偶然たどりつく可能性があるのかもしれない。

この記事を書きながら読み返した文献

  • 西垣通『AI原論 - 神の支配と人間の自由』講談社、2018年
  • カンタン・メイヤース『有限性の後で - 偶然性の必然性についての試論』人文書院、2016年
  • 篠原雅武『人新世の哲学 - 思弁的実在論以後の「人間の条件」』人文書院、2018年
  • 東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』株式会社ゲンロン、2017年
  • 伊藤計劃『ハーモニー』早川書房、2008年
  • 太田充胤『アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』 』2018年