小さな flaneur のテキスト

1985年4月4日、東京生まれ。

社会的インパクト評価をめぐる批判から、思弁的実在論による捉え直しへ

社会的インパクト評価は科学的な知をもとめる体裁で、宗教的な物語を語っているに過ぎないのか。そしてそれを非難する者たちも不在の真理にたどりつこうとしているかは不明である。願わくは、物語が感染と模倣を繰り返し、短絡的な欲望で満ちた世界で偶然に、真理の登場のあらんことを。

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伊藤計劃によるSF小説『ハーモニー』を読んでいた。権力が管理制御する「生命至上主義」の社会を描いた作品だ。人々の身体を「公共的身体」とみなす世界観。

身体を常にモニタリングするデバイス「WatchMe」、病気を予防する投薬システム「メディケア」、理想体型のために食事や生活様式を提案する仕事「ライフデザイナー」を、すべての人々が当然のように使っている。すべての人々の健康のスコアリング情報をリアルタイムで確認できるようになっている。

2018年のぼくらの世界でも、医療費削減を掲げない自治体は無い。政策の実行判断、事業者選定において医療費と住民人口の掛け算が、提示される健康改善のエビデンスとなった。集めた大量の健康データは、計算能力の高い機械で処理されることでアルゴリズム化し、コストパフォーマンスの高い、公共的身体の管理を目指せそうだ。

アルゴリズム化への欲望は医療費だけでなく、社会貢献や社会課題に取り組む分野で顕著に現れている。

例えばぼくらは寄付をするときに迷う。この活動は適切に資金を活用しているだろうか、寄付するからには投資対効果の高い活動を選びたい、格付けやスコアリング情報はないのだろうか。適正に使ってくれる活動を選びたい。寄付の精度を上げることが、社会課題の解決の速度を上げるかもしれないと思うからだ。

小説『ハーモニー』の世界では、2019年に核戦争・感染症で世界が包まれた「大災禍」が発生したことがきっかけで、人々の身体に「WatchMe」がインストールされた。ぼくらの現実のインフラは未熟だけれども、ぼくがはじめて本書を読んだ10年前(2009年)と比べて、公共的身体の価値観は違和感なく現実に向かっている。

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NPONGOなどの社会貢献に取り組む団体やソーシャルビジネスは、活動や事業の成果を世の中に示そうとしている。社会的インパクトと呼ばれ、寄付や投資を促進することが狙いだ。それを可視化する手法である「社会的インパクト評価」が注目を集めている。

資金提供者、貸し手が事業や活動による社会的な価値の「見える化」を求めている。米国、英国をはじめとする国際的な潮流で、これが日本にも上陸しているのだ。

経済合理性もあり、コストパフォーマンスが良い活動を選ぶ。この流れに何も問題ないだろうと思いきや、成果が出る活動に資金が集まれば、社会課題は解決されるのだろうかと声が上がっている。

合理的に社会課題の解決を加速させたい人たちと、地べたの活動の排除を不安視する人たちとの対立だ。

社会的インパクト評価に反対する理由は沢山出てくる。

資金提供者の権力下の行動原理になる。成果主義であり、成果が出やすい活動、成果が出やすい人を助ける傾向になる。予算が付きづらいボランタリーな活動、深刻にもかかわらず当事者の量が少ない活動、提供した資金に比べて投資効果が出づらい活動を排除するロジックになる。自己評価でデータ収集・測定を行う場合、恣意的に結果を改ざんするリスクがある。これまでのインパクト評価事例が評価とは到底言えないエビデンス主義である。

全ての視点がもっともだと思う。それでも社会的インパクト評価は、「社会貢献活動」の概念を完全に書き換えるかもしれない。成果が測れない活動、すぐに成果が出せない活動自体が問題視される。それは資金提供するに値しないと切り捨てられるからだ。

恣意的な指標とデータにもとづいたエビデンス主義が幅を利かせて、見える化、見せる化がうまくいかない活動や事業が排除されてしまうのは避けたいとぼくも考える。資金提供者の権力に擦り寄ってしまうこともジレンマだろう。まるで権力に活動、受益者を人質として晒していることに思えてしまうからだ。

成果主義の浸透は、個人寄付にも影響するだろう。大げさに言えば、インパクトを出さないことは、寄付するに値しない、社会貢献の「枠外」にされてしまうパラダイムシフトだ。

それでも、ぼくは社会的インパクト評価をめぐる対立軸を乗り越えて、真理にたどりつくことができないだろうかと考える。合理的な世界観に憧れたくもあり、功利主義に基礎づけられない「憐れみ」から生まれる連帯も信じたいからだ。

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2018年5月「 ICTを活用した社会的インパクト評価ツールに関する先行事例調査」が内閣府で公開されていた。欧米、東アジアでは50社以上がこのテーマでITソリューション提供をしているという調査結果だ。

目標達成の手段とプロセスを管理するツール。同業他社のデータ比較を通じてインパクト拡大につなげるツール。約30,000件の評価項目と指標を選択できるツール。ICTツールによって、犯罪、教育、雇用、ヘルスケア等の多様な分野の社会サービスの費用が地域ごとにデータが蓄積、一覧化されていく。

同じく5月に発行された「EU一般データ保護規則GDPR )」は、個人情報の公共財化の推進を目指している。シリコンバレーの大企業に独占蒐集されたプライバシーの所有権を、市民社会に取り戻そうとする流れで、ソーシャルネットワーク自体を公共事業化する見取り図らしい。

2018年4月、米国で NPOとテクノロジーをテーマにした3日間の祭典「 Nonprofit Technology Conference 」が開催された。100を超えるセッションのなかで、主催者が掲げた特別セッションのテーマが「デジタルインクルージョン」だった。

デジタルインクルージョンは、スマートフォンやパソコンを使いこなせず、webサイト、SNSサービスにアクセスできず、地域の最新情報を受け取れていない若者や高齢者をサポートする取り組みだ。

ちょうど参加された方がいたので、どんな内容だったかを聞いてみると、地域コミュニティで活動するNPOが、若者や高齢者をサポートするプログラムの事例や、具体的なノウハウを紹介する内容だったようだ。

webサービスが大好きな人だけでなく、ITリテラシーが高くない人々もサインアップさせて、全ての人類からデータが集まり、そのデータを国際的な連帯組織が管理し、公共サービスの費用と効果がどんどん一覧化されていく。その恩恵を受け、僕ら自身もスコアリングされて、そこまできている『ハーモニー』的な生命至上主義の世界を、個々人はすんなり受け入れていくのだろう。幸福になるイメージを抱きながら。

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これまでの寄付もしくは贈与は、偶然性であり暴力的であった。テレビ番組で偶然に知った活動、学生時代の知人が頑張っている活動、生まれ育ったふるさとを応援できる活動。地縁、血縁、たまたま出会ったひとを助けたいと思う「ひいき」が寄付を支えていた。2番目、3番目の活動は選ばれない。

誰かを助けること、誰かを助けないことを、偶然性が決めてしまうのは非合理的で、ナンセンスだと考えたことはないだろうか。これに真っ向からぶつかるのが、功利主義の「最大多数の最大幸福」である。

徹底した功利主義で寄付の義務化を提案したのが、オーストラリアの倫理学者 ピーター・シンガーによる2009年の著作であった。シンガーは、先進国の住民は、貧困国の飢餓救済のために、年間所得の数パーセントを寄付する倫理的義務があると考えた。より豊かな人々には、むろんより高率の寄付義務が課すべきだと。

シンガーの寄付の義務化を実行するには「最大多数の最大幸福」を実証する数値的指針が必要で、社会的インパクト評価はそれを基礎づける統計的なデータになる。

爆発的な計算能力をもつAIが、蓄積された統計データに基礎づけられて、深層学習(ディープラーニング)で、社会的インパクトが出るであろうと思われる活動の最適解を提示する。アルゴリズム化はどんどん進み、公共施策の意思決定、どの社会貢献団体に寄付・投資をするかを科学的に判断できるようになる。

誰を助けるのが正解かを論理的に突き詰めても、絶対的な正しさの答えが出ないし、そんな真理はいつまでたっても現われないことにもう我慢できない。科学的で統計的に正しい判断はますます選ばれ、寄付に対してぼくらは迷うことが少なくなるだろう。

対話は必要とせず、数値情報だけで寄付が行われる。それはもはや寄付でなく法制度化された税金なのかもしれない。統計的正しさへの警戒心は薄れていき、実証できる科学的データの蓄積で、世界は徹底的に優しくなっていく。

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社会的インパクト評価は、エビデンス主義、もしくは科学的な統計的正しさを目指している。それでは、科学的な知を求める、統計的正しさとはなんだろうか。それは、過去のデータで基礎づけて、計算能力で答えを出そうとする「AIのパターン認識」だと言えるかもしれない。

AIは、人間から教えられることなく、みずからでパターン群の分類を実行できるようになった。教師なし学習と呼ばれるものだ。例えば、約1,000万の Youtube 動画から「猫の顔」をAIが認識できたグーグル社の実験が有名だろう。これを誤解してはいけないのが、AIは猫の顔をパターン分類できるようになっただけで、猫の概念を把握できたわけではない。

統計的正しさとは、絶対概念の把握ではない。人間がたどりつけていない論理的な正しさ、真理を掴んでいるわけではないのだ。つまりAIだって圧倒的なデータ量と計算能力で、統計的に正しさが出せるだけに過ぎない。パターン認識だから間違えているかもしれない。ニュースの天気予報のようなものだ。

統計的正しさを警戒する、社会的インパクト評価反対派の声を突き詰めていくと、論理的正しさ、絶対的な真理を志向しているのではないだろうか。

NPOやボランティアは、活動目的に売り上げではなく、必ず「ミッション mission 」を掲げる。経営・運営判断に、活動の正しさを論理的に求める志向だ。

NPOが宗教であると印象を持たれる背景も、ミッションを掲げていることにあるかもしれない。歴史的に、ボランタリーな活動の多くは、明治維新以後に解禁となったキリスト教宣教師や信徒によって担われてきた。もちろん、仏教その他の宗教者や、自由民権思想を背景としたものもある。江戸時代の、庄屋・名主を中心とした村落自治・相互扶助の考え方を基盤にした活動もある。

社会貢献活動は、統計的正しさや経済合理性だけでは十分とみなせない。ミッションを掲げるNPOは神が不在の世界において、論理的な正しさや絶対的な真理を求めている。社会的インパクト評価をめぐる論争において、統計的正しさでアルゴリズムを欲望する活動と、論理的正しさで不在の神を追求する活動の対立構造が生まれているのだ。

この統計的正しさと論理的正しさの対立構造について、日本の情報工学西垣通が2018年に発表した著作が同じように論じてくれている。

西垣によれば、現代社会における科学技術と哲学のあいだの亀裂について、致命的な問題として日常的に顕在化することはないが、倫理や責任など、人間の価値観に関わる分野ではこれが深刻となると示している。

例えば天文学をはじめ通常の理系研究分野では、収集されたデータを数学的ルールで処理することが、世界を客観的に認知した正しい判断だと想定される。物理的、科学的な事象の測定作業や法則の適用妥当性も含め、専門的議論の中で特に客観性が重視されることに違和感はないだろう。

しかし、この議論は人間社会に関わる分野、例えばAIについては成立しないと西垣は指摘する。倫理や責任などの人間の価値観がからんでくるAIの分野では、しばしば観察者である専門的研究者の「主観性」が焦点となってくる。理系研究分野では、観察し記述する者の主観性を考慮することなく、客観的に議論を進め、結論を得ることができているにもかかわらずだ。

倫理や責任にかかわる分野では人間の主観を度外視して、事物について正しく語ることはできない。これは、19世紀のイマヌエル・カントから続いているドイツ観念論によって、物理法則をふくめ、人間の認識を介することではじめて世界が実在するとみなす、「人間の知性」を前提にしている。

だとすれば、近代哲学の主流の考え方からすると、AIによる統計的な正しさ、機械が導き出した答えを支持することは難しいのではないだろうか。「シンギュラリティ」で有名になったレイ・カーツワイルのような人間を超える「普遍的知性」の議論も、軽々しく正当性を与えることができないのだ。

カント的な世界認識を前提にした人間社会において論理的な正しさは、AIのような科学的な知を求める統計的正しさの「普遍的知性」に反発する。それは素朴な科学の実在論にすぎないのだ。

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にもかかわらず、日常生活や意思決定を支えているのは、明らかに科学的な知ではないだろうか。統計的な正しさと論理的な正しさに、いわば理系、文系のような議論に、ぼくらは悩まされている。

しかし、統計的正しさと論理的正しさ、科学的な知への欲望と不在の神の欲望、カントが生み出した対立軸を、最新の哲学はお互いを基礎づけようとしている。

ぼくらは漠然とだが、世界や宇宙で起こる出来事には必然性などなく、偶然に事象が発生すると考えるのではないだろうか。人生は予測がつかないことだらけだと捉えるのが一般的だろう。すべては偶然であると。

また、すべてが偶然だと割り切ってぼくらは生活していないし、近代的な知性、自然科学的な世界観の立場にとって、それは相容れないだろう。世界の謎がすべて解明されていないにせよ、世界の物理法則は数理的に記述でき、計算やシミュレーションで生起する事象は統計的に予測できる。普遍の法則を実証できる論理モデルはあるはずであると。AIに期待される普遍的知性もこの世界観からきている。

普遍的知性の世界観を、素朴な科学の実在論にすぎないと切り捨てるカント的な世界認識を前提に、最新の哲学「思弁的実在論 Speculative realism 」はこの亀裂にアプローチを試みている。

フランスの哲学者 カンタン・メイヤースは2006年の著作で、科学的な知を受けて、哲学を基礎づけようとした。人間の主観と関わりなく、世界には絶対的な事実があり、しかもその事実の出現は「偶然性 contingence 」であると主張した。

世界がこうしてあるのは理由も必然もないが、絶対的な事実はある。数理的な記述で実在する「モノ」に直接アクセスができると。人間不在の世界をひとつの思考実験として、人類誕生以前の「祖先以前性」を導入し、人間の主観の外に出ることの必要性を示した。同じく思弁的実在論を展開する、メイヤースの著作を訳した英国の哲学者 レイ・ブラシエは「絶滅」で人間不在の世界を示している。

米国の哲学者 グレアム・ハーマンは、事実は絶対的に独立しており、人間の理解の外にあり、事物同士は表面的につながっているが、その本質は汲み尽くせなく引きこもっている(退隠 withdraw )とする、オブジェクト指向存在論を主張した。

ハーマンは、人間が事物を汲み尽くせないことについて、マルティン・ハイデッガーによる「道具分析」の独自解釈を展開した。ハンマー(金槌・木槌)が問題なく機能しているときは、人間はハンマーを意識しないが、ハンマーが壊れると素材が何で構成されているかを意識しはじめる。オブジェクトの性質は無限に引きこもっており、絶対的に独立している。さらに人間が認識しきれないオブジェクトで世界は動いており、人間が予測できない大きな力も隠れていると。

人間の理解の外にある隠れている事実とは何か。2011年の東日本大震災以降、原発が機能しているときは、原発の怖さを意識しづらいと誰もが気づいたことだろう。人間による人工物ならコントロールできる、二酸化炭素の排出による温暖化の海面上昇なら排出量でマネジメントできると考えていたが、世界には人間が汲み尽くせない事実があった。原発津波で壊れた時、ハーマンの道具分析の独自解釈のように予測できない事実があらわれた。完全に人間の主観、人工物だけで完結した世界などはなく、絶対的な事実、真理は圧倒的な力で偶然にあらわれる。その前で人間は脆弱である。

数学的に記述できる絶対的な事実はあるが、一寸先は闇で事実には「偶然性 contingence 」が隠れているという思弁的実在論は、ぼくらの直感とも一致するだろう。

いずれにせよ、人は世界が論理的正しさの秩序で成り立っていると思っていない。世界は有限でなく、無限に退隠している。そしてそこには不在の神がいるかのように思えてしまう。

思弁的実在論は、人間の主観の外で事実に直接アクセスできるならば、科学を素朴実在論と切り捨てず、統計的正しさと論理的正しさの亀裂を埋めることができるのではないかと主張する。

そうなるとぼくらは絶対的な真理を欲しがり、人間を超えるAIの知性、シンギュラリティ仮説のような科学的な知で、不在の神を欲望する。

この点について西垣は、フランスの哲学者 ジャン = ガブリエル・ガナシアの2017年の著書を参照し、シンギュラリティ仮説が正確な「論理(ロゴス)」 ではなく、「物語(ミュトス)」によって人々を説得しようとしていると警告する。

カーツワイルが依拠する「収穫加速の法則 LOAR 」は、「法則」とは名ばかりで、単にムーアの経験則などを都合よく拡大解釈したものにすぎない。表面的には形式論理と実証を重んじる自然科学的議論の装いをしているが、精密な論理命題をつないでいく知的論証からはかけ離れている。トランスヒューマニズム(超人間主義)は科学的知ですらないと。

これは社会的インパクト評価の実践に対する警鐘である。評価のフレームワーク「ロジックモデル」や「セオリーオブチェンジ」は、成果指標の設定、関係者との合意形成として活用されるため、論理より物語の魅力によって人々を惹きつける罠にはまる可能性が高い。

しかし、罠が見えているのであれば回避できる可能性もある。「物語(ミュトス)」で「論理(ロゴス)」の価値を阻もうとする障害は、逆に、社会的インパクト評価がどのようなものであるべきか議論を進めることができる。思弁的実在論による捉え直しもその可能性なのだ。

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社会的判断の軽率なアルゴリズム化、物語化は巨大なリスクをはらむものだと、どんなに警鐘を鳴らしても、価値観のパラダイムシフトは止まらない可能性が高いし、AIも社会的インパクト評価も普及が進んでいくだろう。

ITジャーナリスト ケヴィン・ケリーが2016年に発表した著作は、「クラウドAIネット」が実現する理想の世界を示唆している。これまで分析されなかった様々なビッグデータをIoT技術が収集し、アルゴリズム化することで、人間をしのぐ知を実現して大きな社会的インパクトをもたらすであろうと。車の自動運転がその代表例で、高齢者ドライバーの運転はより安全になるかもしれない。

科学的な知を求めることで、論理的な正しさが見つかりはじめている。実際に将棋の若手棋士は、従来の人間棋士同士の研究会に加えて、AI棋士を相手にも研究を重ね、新しい定石の発見、将棋の真理に近づこうとしている。論理的に突き詰めてきた人間の主観だけではたどり着けなかった一手に、過去の膨大なデータに基礎づけることで、絶対的な真理にアクセスしかけているのだ。

人間と機械のアルゴリズムのタッグによる、人間の知の「増幅」に反対する理由はないと思う。同様に、社会的インパクト評価のアルゴリズム化への欲望について汲みつくせていない事実、退隠している事実が見出せる可能性があるのではないか。

だとすれば、社会的インパクト評価も、エビデンス主義や資金提供の権力への擦り寄りだと切り捨てず、統計的な正しさを追及し続けることで、社会貢献活動の絶対的な真理に偶然たどりつく可能性があるのではないだろうか。

この記事を書きながら読み返した文献

  • 西垣通『AI原論 - 神の支配と人間の自由』講談社、2018年
  • カンタン・メイヤース『有限性の後で - 偶然性の必然性についての試論』人文書院、2016年
  • 篠原雅武『人新世の哲学 - 思弁的実在論以後の「人間の条件」』人文書院、2018年
  • 東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』株式会社ゲンロン、2017年
  • 伊藤計劃『ハーモニー』早川書房、2008年
  • 太田充胤『アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』 』、2018年

震災の流れの中断と震災の継起の間の生成変化

「偶然性 contingency 」は、リスク管理、成功報酬型の世界で登場する言葉だ。将来起こりうる事、つまり不慮の事故、不測の事態という意味を持っている。

偶然性や偶発性に自覚的になり、他者へ「共感」した後、結果的に連帯の感覚が生み出されると考えたのは、米国の哲学者 リチャード・ローティによる1989年の著作であった。

彼の考える連帯を生み出す共感は、共通の信念や欲望の確認ではない。キャンペーンやデモのプロジェクトが、社会から注目され、SNSで拡散され、メディアが取り上げることで、「あなたは、私が信じ欲することと同じことを信じ欲しますか」のような問いが生み出すような共感ではない。

彼の考える連帯を生み出す共感は、単純に「苦しいですか?」という呼びかけだった。個人の目の前で偶然に起きた、とても具体的な事に感情移入した後、結果的に生まれる呼びかけが連帯だと基礎づけた。

それを引き受けて、日本の批評家 東浩紀は2017年に発表した哲学書で、連帯の基礎となる共感を「憐れみ」という言葉で示した。この憐れみについては、フランスの哲学者ジャン・ジャック・ルソーの1755年の著作にも登場する。苦しんでいる人々を見て、よく考えずに助けに向かわせてしまうものであり、各個人の自己愛や利害のコスパ計算などを和らげ、人類種全体の相互依存に協力する。この働きが憐れみだ。

憐れみで、個人が偶発的にだれかと連帯しようとする。それはうまくいかずに失敗する。あちこちでうまくいかず、不平等も生んでしまうかもしれない。東はそれでも、たえず連帯しそこなうことで、結果的にあとから振り返ると、連帯らしきものがあった気がしてくる錯覚が、次の連帯の(失敗の)試みを後押しすると考えた。

民族や宗教や文化のような大きな帰属集団が生み出す大きな共感ではなく、偶然の出会いによる憐れみ、「苦しいですか?」と呼びかけることで連帯しようとする。「憐れみ pity 」には、「共感 sympathy 」の感情が含まれる。

何度も繰り返されてきているように、この連帯はよく失敗している。それでも、あたかも家族写真アルバムのように振り返ると、結果的にそこに連帯が、存在するかのうように見えてしまう。東は錯覚の集積として連帯を構想した。

とはいえ単純に「苦しいですか?」と呼びかけることは可能だろうか。

たまたま偶然に、目の前に苦しんでいる人がいる。複雑化し、個別化がすすむ世界で、個人が何も強制力を無しに、その呼びかけを何度も生み出すことができるだろうか。

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2017年11月下旬、3列シートの四駆車の助手席に座って、イワサワ(・コウジ似の道案内人)に岩手県陸前高田市を案内してもらっていた。もの寂しい冬の沿岸部に、工事用の重機が遠くに見える。一車線やら二車線に何度も変わる道路で、何台もの大型トラックとすれ違う。カーナビは数ヶ月前に道路情報をアップデートしたというのに、若干の過去の道路と現在の道路の齟齬により、迷子になっている。「道路の記憶」が日々の工事状況で閉鎖・移動・解釈変更がなされ、固定化されていない。8割以上の進捗とニュースで見た復旧と整備は、休日も止まることなく続けられていた。

ぼくは2011年の夏に南三陸石巻に2度訪れたきり東北に行かなくなっていた。2015年からは、東日本大震災とりわけ原発事故をめぐることについて個人として全く言及していない。震災はこう語らなければいけない。福島はこう語ってはいけない。それが大切なのはわかるけど、固定化された語り方とまなざしの圧力から逃げてしまっていた。むろん日々の仕事で入ってくる情報、SNSで流れてくる現地で活動をする知人の様子が、幽霊のようにいつもぼくを見ていて逃れることなんてできなかった。

東北にふれることは、冠婚葬祭に赴く気持ちに近い。決まったものを見て、決まったことを言って、決まったことを聞かなければならない。東北の太平洋側は巨大な慰霊の空間で、ぼくは慰霊の作法を求められているように思っていた。能動的な意思、大きな強制力がなければふれようとししない、ぼくは堕落していたのだ。

堕落であっても、本当はもう一度かかわりたい。動物のように待ち伏せていたぼくは仕事で「桜ライン311」と出会った。津波の最大到達点に桜を植樹し、桜並木で百年以上の未来に記憶を残す活動だ。かかわり方として寄付はもちろん、春と冬の桜の植樹会への参加がある。

出会った2017年の夏に、植樹会への参加を決めた。桜の植樹は、東北に期待されている作法とはまったく別のありかた、不思議なものに見えた。桜の植樹だけで陸前高田に入っていいのか。新しく語ってもよい言葉を獲得できるのか。東北ともう一度関係をやり直せるかもしれない、特別な興奮を見つけた。

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桜の植樹は翌日ということもあり、出発日はイワサワの案内で、陸前高田をめぐった。イワサワは東日本大震災後の数年間は東北で人材派遣のような仕事をしていて、陸前高田で精力的に今も継続しているプロジェクトに詳しかった。ここ最近の仕事は、「農家民泊」を全国に普及するプロジェクトが中心らしい。イワサワはぼくらに、何を見に行きたいか聞いた。ぼくらはイワサワが勧めるところなら、どこでもいいと答えた。

道の駅のようなお土産店が併設されている、沿岸部のオフィスに到着し、民泊修学旅行を実施する「マルゴト陸前高田」にお伺いした。中高生が修学旅行先として陸前高田に行き、4、5人のグループにわかれて、各家庭に宿泊するプログラムを、オフィスにいらした職員の方に教わった。

修学旅行生は地元の家庭で、寝食をともにして、泊まった家が生業にしている畑作業や漁業などの仕事を手伝う。各家庭が体験した津波の経験と声を、直接聞く学習の時間も用意されている。テレビやインターネット、すでに事前学習や資料館で大まかなイメージをつかんでいる修学旅行生にとって、民泊は震災と震災以外の陸前高田の背景情報に関心を抱くことができるプログラムになっていた。

中高生にとって修学旅行は、行き先を選択できないなかば強制的な経験になる。「学校行事だししかたないから」、「友達と旅行できるのがとっても貴重な時間」という気持ちを逆手にとって、結果的に、地元の人の生活や声、本来の陸前高田の魅力に導くプログラムに見えた。

それと、民泊修学旅行の迎えた最終日に、中高生が受入れ家族と一緒に撮影する集合写真がとても尊いと思えた。彼ら彼女らは卒業式や同窓会、5年後、10年後に、陸前高田に修学旅行をした思い出を振り返るだろうし、また訪れたくなるかもしれないだろうと想像した。

修学旅行生が、事後的に自分と陸前高田との運命を見出す視線を獲得できる可能性を秘めた、とても素晴らしいプログラムだと思った。ところが驚いたのは、前年の修学旅行生たちが、翌年にはプライベートに友達同士で、陸前高田の受入れ家族のところに戻ってくることがあるらしい。震災について、自分で語ることができる視線、運命を見出した中高生と、逃げていたぼく自身を比べてしまった。

さらに聞くと、マルゴト陸前高田の民泊修学旅行は、一度に300名規模の学校の修学旅行も受入れが可能らしい。一度に100世帯以上で民泊できる規模だ。陸前高田の人口は2万人。民泊受入れ費用があるといっても、プライベート空間に縁もゆかりもない他者を招き入れる世帯数にしては、少し信じがたい数字だとぼくは感じた。

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民泊修学旅行を紹介するマルゴト陸前高田のオフィス

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人の行為には意思があって、責任が生ずる。だが、意思と一体になった責任は、責任の堕落した姿ではないかと考えたのは、日本の哲学者 國分功一郎による2017年の著作であった。

「責任 responsibility 」は、「応答 response 」と切り離せないのではないか。自分の目の前で起こったことや、自分が知ったことへの応答として、責任はあると國分は示した。

中国の故事に孟子の「以羊易牛 : 羊をもって牛にかえる」が、この責任のありかたを示す。王様はたまたま偶然、牛を連れているものを見た。たずねるとこの牛はお祭りの生贄で殺されてしまうらしい。牛に罪はない、かわいそうだから助けてやれと、王様は命令をした。お祭りの生贄の代わりには、羊がよいだろうと王様は伝えた。

この故事に孟子は、羊がかわいそうではないかと反論もわかるが、王様はたまたま目の前にいた牛を、助ける理由もないのに助けた。まずはこの行為が重要で、ここにまで及ぶことが義の心であるとした。

放っておけば世の中は善になるわけはなく、目の前にした他者に対して湧き起こった忍びざる心を、行為にすることが大切だと孟子は考えた。王様が応答したように、まずは牛を助けることからが重要で、そこから想像力を通じて、不在の他者にまで拡充させること、善に向かって何らかの作為的な努力をつづけることが性善(説)であるとした。

何かに強制されず、「応答 response 」しなければならないものを感じた王様の行動には、「責任 responsibility 」の原初形態が見てとれる。國分はこれに対して意志と一体になった責任は、応答すべき立場にあるにもかかわらず応答しない人に、意志という概念装置を使って強制的に応答させることだと考えた。ぼくたちの社会が思い浮かべるこの責任の姿は、責任の原初形態からはほど遠い堕落した姿であると。

理想論ではなく、ぼくらは偶然の出会いの中で、原初形態の責任を発揮している。例えば終戦直後の日本で、たまたま戦争孤児に出会い、かわいそうに思ったから養子にしたというエピソードは、さまざまな物語に描かれている。

2018年のいまでも全国上映が続いている片渕須直監督、こうの史代原作のアニメ映画「この世界の片隅に」のラストシーンを思い出す。すずさんは廃墟になった広島で、知らない子どもと出会い、その子どもを引き取ることにした。戦争孤児を受け入れることは誰からも強制させられないし、国が強いたわけでもない。すずさんはどうして戦争孤児を引き取ったのか。彼女は何に応答したのか。

お義姉さんの子どもを自分の右手と一緒に、不発弾で失った経験が大きいのかもしれない。たまたま偶然に、困っている、食べ物を欲っする子どもを目の前にし、助けずにはいられなくなった。お義姉さんの子どもを助けられなかったことが、すずさんの目の前の子どもを助けたいという行動につながったのではないか。誰からも強制されていないが、 お義姉さんの子どもに抱いていた責任に応答したのではないか。自分が本当は助けたかった特定の誰かではなく、たまたま偶然に、目の前で苦しんでいた子どもに、「苦しいですか?」と呼びかける。終戦直後の見えない生活の中で育てるコスパも考慮しない、憐みの行動だ。

70年前だから通用するわけではなく、2017年でもぼくらは応答している。

陸前高田の民泊修学旅行の受入れ家庭の数は、民泊に詳しいイワサワから見ても、町の規模の割りに多い。拒否をせず、引き受ける家庭が多いのか理由を聞くと、東日本大震災当時、多くのボランティアに助けられた経験が、民泊受入れを後押ししていた。今度は「われわれ」が民泊で受入れる番だと言う。強制力はもちろんない。民泊受入れ費用のインセンティブもそれほど大きくない。民泊を受入れることは、陸前高田の応答であり、連帯なのだ。

リチャード・ローティは、たまたま目の前に苦しんでいる人間がいる。ぼくたちはどうしようもなくその人に声をかける。同情する。それこそが連帯の基礎であり、われわれの基礎であり、社会の基礎だと言う。

ルソーは、憐れみとは、われわれが苦しんでいる人々を見て、よくも考えもしないでわれわれを助けに向かわせるものであり、各個人において自己愛の活動を和らげ、種全体の相互保存に協力している働きだと言う。

もし憐れみがなければ、人類はとうの昔に滅びていただろうと「人間不平等起源論」でルソーは記す。憐れみこそが社会を作り、そして社会は不平等を作ると。市場で注文したはずのものが違う場所に届いてしまったり、注文していないはずのものが届いてしまったり、交換が失敗し結果的に贈与が生まるように。

東浩紀は、憐れみで、個人が偶発的にだれかと連帯しようとする。それはうまくいかずに失敗する。あちこちでうまくいかず、不平等も生んでしまうかもしれないと言う。それでも、たえず連帯しそこなうことで、結果的にあとから振り返ると、連帯らしきものがあった気がしてくる錯覚が、次の連帯の(失敗の)試みを後押しすると。

意思と一体になっていない責任の行動、憐れみが連帯を生み出す。自覚的に、意思なしの責任は生み出せないだろうか。ぼくらは法律や市場のルール、意思という強制的な概念装置使って責任を持って誰もが行動することができるし、行動に根拠付けをされて責任を問われる。ただそれが(交換が)失敗しつづけているのも現実で、憐れみ(と贈与)に満ちた空間でもあると言える。偶然性に自覚的な仕掛けをすることで、何かに応答する責任が生まれるような連帯を拡張することはできるだろうか。

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植樹会の朝 - 桜ライン311のFacebookページより

天候に恵まれ、氷点下になるかならないかのなかで桜の植樹会は行われた。この日は、地元、北海道から九州まで全国から120名が参加し、新しく41本を植樹したようだ。

スコップや培養土、いくつものポリタンクの水などが配られ、遠くに海が見える高台に登り、ぼくらも3人1組で、2メートルほどの桜の苗木を1本植樹した。この桜は、ソメイヨシノのようにすぐに花は咲かないらしい。苗木が満開になるのは、10年以上先のようだ。

震災にはかかわれないとあきらめを感じていた時間は、ぼくの経験的な失敗だった。それでも7年間の失敗から事後的に、震災に対する運命を見出すかのような経験となったと思う。

「憐れみ」は、自分の中に生じた「忍びざるもの」の端緒をたぐりよせて「忍ぶもの」になるように努力する必要があり、努力を切断しないようにすることが重要なのだと言う。植物の発育のように、草木が生い茂るように拡張できるだろうか。桜並木が満開になるその時まで、桜の木の下で連帯するかのような想像力につながるといいと思う。

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東京に戻ると、ヘルメットをかぶった作業員の人たちが街路樹の植え替えをしている。ぼくは32歳になるまでやったことのなかった、植樹の作業手順を思い出していた。1月の東京と、11月の岩手県の肌寒さはちょうど同じかもしれない。道路の反対側から見ても10メートル以上はありそうな木で、ぼくが植えた2メートルほどの桜の苗木とは比べものにならなく大変に違いない。

この記事を書きながら読み返した文献

  • 東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』株式会社ゲンロン、2017年
  • フランソワ・ジュリアン『道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ』(中島隆博・志野好伸訳) 講談社、2002年
  • 國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』医学書院、2017年

 

戦後運動史、NPO史の見取り図

思い出されるとどうしてもやるせなくなる2017年の出来事は、10月にあった民進党の分裂。希望の党とのやりとり。そしてスティーブン・バノン氏とのやりとり。情報が届くたびに今世をあきらめる気持ちが止まらないのが正直な気分だ。ここまであけすけに裏表なくやられてしまうと、政治的な公のこととは何なのか考える。それに応援もしくは反対する人も含めて、その考えは見たくも知りたくもなかったよ、尊敬していたかったのにと勝手にがっかりしてしまう。私的な秘密なことがあるから、公な建前が成り立つのに、ごった煮で提供される現実に受け止めきれないでいる。

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朝のオフィスでテレビ電話の打合せをする。毎回とても気持ちよく協力してくれる方で、本人はできる範囲でといつも表現をしているが、限りなく時間を割いてできるだけ目一杯に相談にのってくれて、毎回一緒に形にしてくれる。イヤホンから声を拾いながら、とても大切な仕事のパートナーだと少なくともぼくは思っている。課題はまだあるが、今日も無事に45分の打合せが終わった。

テレビ電話の打合せの最後には、必ず手を振って終えることにしている。ぼくは対面の打合せでこの仕草を決してしない。移動時間の節約だけでなく、このコミュニケーションが自然と生まれるからテレビ電話の打合せが好きだ。お子さんと一緒に向こうも手を振ってくれて終わる。この方には今年はじめてのお子さんができた。ぼくと同じ日に生まれたと聞いたとき、まだ出会ったこともないのに嬉しさが込みあげてくることもあるのだと思った。1時間して、また別の方とテレビ電話の打合せが始まる予定だ。

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2009年、ぼくはいまの仕事を選ぶことができた。NPO業界で新卒として働き始めた。1968年の全共闘運動で学生だった代表が立ち上げてから20年続くNPO支援組織だ。この頃から日本でソーシャルアントレプレナー社会起業家)に注目が集まり始めていた。前年の2008年には、iPhoneFacebookTwitter が本格的に日本に上陸した。

2010年にアラブの春、2011年にウォール街占拠、2014年に雨傘革命、ALSアイス・バケツ・チャレンジが世界中で立て続けに起きた。2011年の東日本大震災は、インターネットで世界中が距離を越えて、いまここにある社会を変えたい気持ち、行動がつながる連帯、マルチチュード、大衆が世界を愛で思いやっていくさまに、日本人としていまのタイミングでこの仕事をできている運命に静かに興奮していた。そしてゆっくりと冷めていった。

シリコンバレーで起きていること、米国、英国のNPO、チャリティ、社会起業家の活動に未来があると信じて追いかけ続けた。社会が1ミリでも動く可能性があるなら、寝食を投げ捨て飛びついた。Facebook をはじめとするネットワークの力で世界中で感動的なマルチチュードが起き続けていた。技術、テクノロジーが国境を溶かして愛と平和のテキストと音と映像を届けてくれた。だれも制御できないくらいの量で大衆が各々の問題意識、ビジネス、政治思想を掲げることができるようになった。複雑な問題を表明、試行錯誤していくプロセス、本当の意味での民主主義はこれだと思った。秘密を隠すことのない人間と、隠したくても秘密を隠すことができなくなった人間同士の闘いが始まるなんて想像できなかった。

民主主義は負ける人も出てくる。数年の変化にセーフティネットを準備できるわけもなく、いまここで勝ち馬、ビッグウェーブに乗り損ねないことが成功の条件、処世術になった。いつのまにかぼくは民主主義でふるまう人間に限界を感じた。負けるのは自己責任、リバタリアンの空気がとても嫌になった。シリコンバレーが好む最善説(オプティミズム)、ライプニッツ的な信念に苦しくなった。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」のイワンがアリョーシャに向けた言葉が頭を打つ。いまここの子どもたちが犠牲になるのは見過ごせというのか、失敗と犠牲があったからこそいまの素晴らしい世界があると正当化するなど認めないという主張だ。

そしてやがて世界のフィナーレ、永久調和の瞬間すばらしく価値ある何かが起こり、現れて、すべての人間の心を満たし、すべての怒りを鎮め、人間の罪や、彼らによって流されたすべての血をあがなう、しかもたんに人間に生じたすべてを許すばかりか、正当化までしてくれる、とな。/でもな、たとえそうしたことがすべて生じ、実現したところで、このおれはそんなものは受け入れないし、受け入れたくもない!やがて平行線も交わり、おれ自身がそれをこの目で見て、たしかに交わったと口にしたところで、やはり受け入れない。/これがおれの本質なのさ、アリョーシャ、これがおれのテーゼなんだ。(『カラマーゾフの兄弟 2』亀山郁夫訳、二一九頁)

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10月の民進党の分裂は、日本にリベラルを掲げる政党がなくなってしまうと絶望になった。11月には分裂のきっかけとなった前代表は辞任。12月、彼は自身の公式SNSで、白人至上主義の保守系ニュースサイト「ブライトバート」会長と固い握手を交わす写真を添える。一貫した政治思想を感じることができないのはぼくだけであろうか。いまここの勝ち馬に乗り、失敗や犠牲があったとしても、最終的に成功すればいい。すべての政治が最善説であるなら辛い気分になる。

ぼくは2005年から投票権を得て以来、欠かさず選挙に参加してきた。民進党(旧:民主党)に投票し続けてきた。2010年に民主党政権が誕生したときは、自分の投票行動が政権交代につながったと感動した。政権が変わっても、何かを信じて投票し続けてきた。2016年の都知事選、悩んだ末に投票した候補者が見事当選をした。そして民進党が分裂した。絶望を生んだのは自らの投票なのだ。本当にうんざりした。ぼくもまだみぬ未来をあきらめず、これも最善説で仕方ないと割り切れたらいいのに。

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日中の仕事のやり取りは主にメールとFacebookのメッセージ機能で連絡を取り合っている。ぼくのFacebook は仕事のクライアントの投稿が9割近くを占めている。同じようにクライアントも仕事時間中にFacebookを活用しているので、最新情報が自然と届く。

ひとり親家庭に一流のクラシックコンサートをクリスマスに贈るプログラム。とてもいい。クラウドファンディングサイトが選ぶ年間ベストプロジェクトに、貧困家庭の子どもが活用できる塾費用のクーポン券を提供するプロジェクトが選ばれる。全国初の行政、NPO、企業、市民協働(コレクティブインパクト)による教育格差解消プロジェクトの次の展開に期待したくなる。続いて、ウガンダのシングルマザー支援、カンボジアの農村女性とのアパレルブランドの立ち上げ。

それぞれの投稿に応援のコメント、連携が始まりそうなコメントがついている。社会の課題解決に向けてパワフルにネットワークの力が機能しているのがリアルタイムに飛び込んでくる。多文化共生、生命尊重、平和、人権擁護、フェミニズム、テーマを越えるネットワークの連帯の勢いが止まらないように思える。次のテレビ電話の打合せを2時間後ろに調整してほしいとあり、承諾して電話をおいた。リベラルな雰囲気の画像がブラウザの下から現れつづけていた。

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2012年、日本国内であらゆるデモ、大衆行動、異なる目標を越えて手を取り合う、連帯のマルチチュードが一気に動く。さよなら原発10万人集会、国会前抗議にともなう SEALDs 結成をはじめとする市民運動。ネット署名の Change.org が日本上陸しを果たし大衆が企業活動、政治活動を正す。「保育園落ちた日本死ねブログ」が衆議院予算委員会まで届く。1968年の全共闘の運動ノウハウから大きな変更はないが、2010年代の市民運動、ネット動員は事例、インタビュー、回想録のコンテンツになり続けた。政治思想はいらない。中央集権的なリーダーもいらない。インターネットと愛さえあればいい。ネグリとハートが『帝国』で提唱したような、私的な問題意識から生まれる新しい運動が成功例として紹介された。

2017年、貧困問題、多文化共生、孤立化など国内で社会課題解決の取組みに共感が集まり、みんなが活用できるパワー(権力)を持ち寄ってプロジェクトを立ち上げるムードは止まらない。組織の所属有無に関係なく個人の問題意識を、君主型権力へ届けて、いまここの発言や行動を変えるプロセスが急速に受け入れられるようになった。

ぼくもいまこの業界で仕事をしていてネットワークのビッグウェーブに乗っているはずなのに、気分の高揚は訪れない。むしろゆっくりと冷めていく。

その理由に気づかされたのが2017年10月の衆議院選挙だった。選挙特番で、ぼくらは戦後民主主義をまだ定義できていない、市民運動NPOの脆弱さを指摘しながら、民進党の分裂劇を解説する有識者の言葉を眺めていた。ちょうど手元にあったロシア現代思想の見取り図を参考にして、グローバルコミュニズムリベラリズムナショナリズムの3つの政治思想に分けて、日本の戦後運動史、NPO史の変遷を見取り図にした。

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冷めた理由がはっきりした。2009年にNPO業界で仕事をはじめたぼくは、リベラリズムに憧れていたのだ。運動史NPO史においてリベラリズムの勢いが民主党(現:民進党)政権があった2012年以降に大きな出来事が生れていないことを見取り図が示してくれた。ぼくの中で強固に冷めてきたものは溶けていき、救われた気分になった。

とても明晰なったことは、市民運動NPO業界で最盛を極めているのは世界共通で国内ファーストのナショナリズム。正直寂しいが、日本国内に住まう人々の社会課題の解決は大切だと思う。同時に排外主義、ナチズム的なヘイトスピーチ運動の勢いも止まらない。連帯、マルチチュードのノウハウはヘイトスピーチフェイクニュースに活かされ、これらはビジネスにもなるため、資本力を存分に投入して大衆を動かしている。

国境を溶かすと言われていたインターネット技術は、ネットワーク内の正義を助長するのに大きく貢献している。異なる目標をもつ者同士が、お互いの愛と共感をコメントで確かめ合い、なりふり構わず仮想敵をテキストで攻撃し続ける。アメリカ・シャーロッツビルの白人至上主義者の衝突、スペイン・カタルーニャ独立の運動、日本国内においても政権与党への陰湿な選挙妨害は見ていたくない。

無理やり二項対立軸を掲げて、重要なことは運動の中身ではなく、連帯の事実で、どちらかの連帯につくのか、おまえは友(自国民)か敵(テロリスト)かを迫ってくる暴力性。政治とは何かとカール・シュミットが提唱する「友敵理論」と、ネグリとハートが提唱した「マルチチュード」の私的な問題意識が実現する政治運動が定着し、日本国内コミュニティが分断が訪れている。敵への憎悪によって、大衆の愛と共感のネットワークは権力に形を変えた。それは市民運動だけでなく、NPO業界にも幽霊のように背後に彷徨っているかもしれない。対君主型権力、規律やルールへの抵抗だけではない、ネットワーク対ネットワーク、市民運動市民運動の闘いが日夜続けられている。

やるせないこれからについて『敗戦後論』の加藤典洋が、1850年代の尊皇攘夷思想と明治150年になる2018年を関連付けた近著を引用する。

1930年代からさらに80年がたっている。世界が全体として閉塞の兆しを見せ、日本の国としての、社会としての生存の状況が厳しさを増している。そして私たちは、三度目の、尊皇攘夷思想の到来――それをもたらすべく、新たな復古的勢力が、環境を整えている状況を目にしている。嫌中韓・排外的なヘイトスピーチに彩られたものになるのか、それとも反米的な自国中心主義的な軍国主義化を唱えるものになるのかはわからない。/また、退位問題で現在の天皇の意思は現政権に「押し込め」られ、その準備する形式のもとに退位実行を促される形勢だが、これが再び社会に「尊皇」の要素を回復する道をひらくものなのかどうかも、わからない。/さらに、これは悪い冗談ながら、2020年の東京オリンピックが、やはり80年前の1940年の東京オリンピック同様、世界情勢の激変により急遽中止にならないか。その顛末も、私の知るところではない。(『もうすぐやってくる尊皇攘夷思想たのめに』加藤典洋、六六頁)

これからネットワークをつくる運動とNPOはどうなっていくのか。ぼく自身の今世はあきらめた。いまここに振り回されるものやめる。もっと時間をかけながらゆっくりと抵抗していきたい。


見取り図作成の参考文献

  • 岡本栄一、石田易司、 牧口明『日本ボランティア・NPO・市民活動年表』明石書店、2014年
  • 中村陽一 講義資料「社会デザインとソーシャル・イノベーション」、2014年
  • スペクテイター29号『ホール・アース・カタログ〈前篇〉』幻冬舎、2013年
  • 貝澤哉、乗松亨平、畠山宗明、東浩紀、松下隆志『ゲンロン6 ロシア現代思想Ⅰ』株式会社ゲンロン、2017年